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(2)

劉邦(前256か前247−前195)
 と項羽(前232−前202)

劉邦(前256か前247−前195)と項羽(前232−前202)中国の秦王朝が栄えたのは、紀元前220年のころで、万里の長城を築いた始皇帝の勢いは絶大なものでした。

しかし、始皇帝が死ぬと秦は急速におとろえ、わずか16年で滅びました。そのきっかけになったのは、陳勝や呉広が起こした農民の反乱です。反乱は、秦の強い軍隊におさえこまれ6か月で敗れてしまいましたが、秦をたおそうという気運はますます広がりました。その先頭に立ったのが、項羽と劉邦でした。

劉邦は名もない農民の子で、沛というところに生まれました。百姓仕事が大きらいで友だちと飲み歩いては、新しい理想の国家論を論じあったりして青年時代を過ごしました。そのご、地方の下級役人になったとき、陳勝らの反乱を知り、沛の農民によびかけて立ちあがったのです。

ちょうど同じころ、江南で兵をあげたのが項羽です。

項羽は、楚の国の将軍家に生まれましたが、両親が早く死んだため、おじの項梁に育てられました。楚国復興のチャンスをねらっていた項羽と項梁の二人は、陳勝らが秦にはむかったことをしると、ただちに8000人の兵をひきいて揚子江を渡り進撃を開始しました。

前208年、項梁が死に、そのご楚軍の中心になったのは、項羽と劉邦です。項羽は北から、劉邦は南路をとおって秦の都にせめ入ることになり、最初に都に入った方が王となる約束をかわしました。

およそ1年ご、劉邦はひと足先に関門をうちやぶり、都をを占領しました。先を越された項羽は、劉邦を殺そうと考えますが、相手が話し合いをもとめてきたので、それに応じました。この会見は、その場所の名をとって「鴻門の会」とよばれ、後の世まで語りつがれることになります。

そのご、劉邦は軍を都に進め、秦王を殺し、宮殿に火をはなちました。その火は3か月にわたって燃えつづけ、秦帝国はあとかたもなく滅ぼされてしまいました。

秦の滅びたあと、項羽は「西楚の王」として、楚の国を復興しようとしましたが、劉邦の不満をかい、失敗におわります。

権力の座をめぐって、劉邦と項羽は、5年間も戦いをつづけましたが、項羽は、まわりを敵にかこまれて自殺しました。このとき恋人虞との別れを惜しんで作った歌は有名です。

前202年、ついに劉邦は皇帝の位につき、ここに漢王朝が発足しました。貧しい農民から皇帝の位についたのは、中国歴史の中で、明王朝の洪武帝のほかには、劉邦ただひとりです。


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