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司馬遷(前135ころー前93ころ)

司馬遷(前135ころー前93ころ)司馬遷は、中国民族の歴史をつづった『史記』という130巻もある書物を完成させた、中国の歴史家です。

遷は、周王朝からつづく史官の家に生まれました。史官は、歴史記録の作成や史料を保存したりするのが仕事です。歴史を正しく記すためには、暦を正しく読んだり、正確な文章が書けなければなりません。

父の司馬談は、天文観測による暦のもとに、公式記録を記入する太史令という武帝につかえる役人でした。遷は父の職をつぐため、おさないころから古い時代の文字や古文を読むことを学びました。やがて成人した遷は、父と同じく武帝につかえ、全国を旅行しながら見聞と知識をひろめました。

遷が26歳のとき、父は遺言をのこして病死してしまいます。

「孔子が『春秋』をあらわしてから、440年もたつが、そのあいだの記録がととのっていない。国が統一されたいま、書きのこすべきことがたくさんあるのに、何もできずに死んでいくのが残念だ。わたしの意志を、おまえが実現してくれ」

この父の言葉で遷は歴史家になることを決意しました。

2年ご、父のあとをついで太史令となった遷は、宮廷に秘蔵されていた戦国時代の記録や歴代の文書を読み、史料収集にとりくみました。そして『史記』の執筆にとりかかったのです。

ところが『史記』を書きすすめていた遷に、不幸なことがおこりました。北方で匈奴と戦っていた李陵という将軍が、敵に降参して捕えられてしまったのです。怒った武帝は、李陵一族の処罰をどうするか、役人たちにはかりました、ほとんどの役人が刑をあたえるべきだというなかで、遷は「李陵が、少人数で敵の大軍をなやませた戦いぶりはみごとであり、最後に降伏したのはやむをえない」と李陵をかばいました。

武帝は、遷の意見に腹をたてて、遷を牢屋にいれてしまいました。そして、性器を切りとるというたいへんきびしい刑罰をあたえました。こんなつらい刑をうけるのなら、いっそ死刑になったほうがましだ、と遷は思いました。でも「わたしが死んだら、いままで手がけてきた『史記』は未完成に終わってしまう。どうしても、これを書きあげて、後の世にのこそう」と生きる勇気をふるいたたせました。

刑が終わって、ふたたび役人になった遷は、可能な限りおおくの史料を集め、こつこつと数千年におよぶ歴史を書きつづけました。そしてついに遷の生涯をかけた『史記』が完成したのです。『史記』には、遷の強い時代批判がつらぬかれています。


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