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諸葛孔明(181−234)

諸葛孔明(181−234)中国は、3世紀にはいると政治がみだれ、あちこちで豪族や武将が勢力をきそい、あらそいがはげしくなりました。そのなかで曹操と孫権の二人が、強い力をもっていました。やがて、劉備も天下統一をめざしてたちあがります。

劉備には、二人の強いけらいがついていました。でも戦略のうまいけらいがいません。国を建てるには、武力にくわえて知恵と知識のある人をみかたにすることがたいせつだと考えた劉備は、作戦のうまい人をさがしもとめていました。

そんなとき、壌陽の郊外に、諸葛孔明というかしこい青年がいることを聞きました。さっそく、劉備は馬を走らせましたが、会えません。季節が秋から冬にかわって、ふたたび孔明をたずねました。このときも会えませんでした。草木がいっせいに芽ぶく春、三たびおとずれました。3度めの訪問でやっと会うことができました。

劉備は孔明に、ぜひ力をかりたいと頼みました。孔明は、豪族の出身でしたが、戦乱をさけてひっそりと暮らしていましたので、なかなか承知しません。しかし、劉備が3度もむかえにきてくれたことに感激して、孔明は、家臣になることをちかいました。

劉備の期待にこたえて、孔明のめざましいかつやくが始まります。208年、荊州に攻めこんできた魏の国の曹操を、孔明は呉の孫権と手をくんでむかいうち、曹操を北に追いはらってしまいました。この戦いで、劉備は荊州を手に入れます。そのごも領土を広げ、蜀の国を建てました。

そして、またたくまに蜀の国は、魏や呉とかたをならべるまでの勢力になりました。ここに中国全土を3つにわけてにらみあう、三国時代が幕開けとなったのです。

221年、国の名を蜀漢国として、劉備は皇帝となり、孔明は丞相という地位を与えられました。皇帝になった2年ご、劉備は重い病気にかかり、子の劉禅を孔明にたくして亡くなりました。孔明は、幼い皇帝の劉禅をたすけ、成長するにしたがって軍を指揮する方法や政治のあり方を教えました。その教えは、『出師の表』に記されて有名です。

234年、孔明は魏の大軍とむかいあった陣地のなかで、病死しました。うわさをきいた魏の大将仲達は、蜀漢軍を一気につぶそうとしました。ところが蜀漢軍は、少しもあわてず、整然としています。仲達はまだ孔明が生きていると思い、あわてて兵をひきあげました。孔明は、それほどすぐれた政治家でした。


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