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永楽帝(1360−1424)

永楽帝(1360−1424)14世紀のなかば、それまで中国を支配していた元というモンゴル人の王朝をほろぼして、洪武帝が明の国を建てて、南京を首都としました。

永楽帝は、この洪武帝の4番めの子です。顔つきもからだも堂どうとして、知恵にも武勇にもすぐれていたので、父から信頼されていました。燕王という名をもらい、モンゴル人の侵略から国を守るために、北方へおもむきました。洪武帝が死ぬと、つづいて即位したのは孫の建文帝です。建文帝は家来たちのいうままに、燕王やほかの有力者たちの権力をうばおうとしました。これを知った燕王は兵をあげて、4年間もの戦いのすえ、ついに南京をおとしいれました。戦いにやぶれた建文帝は燃えあがる宮殿のなかで死んでしまいました。こうして、燕王は明の3代めの皇帝、永楽帝となったのです。

永楽帝は北京を明の新しい首都とし、壮大な宮殿を築きました。そして、明の力を世界に示そうと、モンゴル、シベリヤ、チベット、安南(いまのベトナム)、朝鮮、日本にまで兵を送り、または使者をやって明に従うよう命じました。

そればかりではありません。鄭和を総司令官として大船隊による南海遠征を行なったことでも有名です。これは東南アジアの諸国に明へみつぎものをささげるようにすすめることで、貿易によって利益を得ようとする2つの目的をもった遠征でした。そのため、これらの船は「宝船」または「西洋取宝船」とよばれました。

1405年、劉家港(いまの上海の西北)に集まった第1回の遠征隊は、総数62隻、乗組員2万8000人という大船隊でした。そのなかには長さ約140メートル、幅16メートルの船もあり、いずれも見あげるような巨大な船ばかりでした。この南海遠征は7回も行なわれ、大船隊は、マラッカ、パレンバン、スラバヤ、セイロン(いまのスリランカ)、カリカットなどを訪れました。なかには、遠くインド洋、アラビヤ海をわたって、ペルシャ湾のホルムズ、アラビヤのアデン、アフリカの東海岸にまで達した船隊もあります。大船隊は各地で大いに明の勢力を示し、諸国のめずらしい品物やライオン、キリンなどの動物をみつぎものとして持ちかえりました。

また永楽帝はモンゴル族を討つため、自ら大軍をひきいて砂漠をこえて北へ進み、3度にわたって勝利をおさめました。しかし5回めの遠征のとき、病気にかかり、楡木川というところで亡くなりました。雄大な生活を好んだ皇帝らしい最後でした。


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