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ケプラー(1571ー1630)

ケプラー(1571ー1630)「火星は、太陽を中心に、だ円をえがいてまわっている」

惑星の運動を研究して、法則を発見したケプラーは、17世紀の科学に大きな進歩をもたらしました。しかし、偉大な天文学者ケプラーの一生は、病気と貧困の連続でした。

ヨハネス・ケプラーは、南ドイツのワイルという小さな町に生まれました。家が貧しかったので小学校にも行けず、13歳になってようやく奨学金で僧院付属の学校に入ることができました。たいへんよい成績をあげて、大学にすすみ、牧師になる勉強をしました。そこでメストリンという教授に天文学の教えをうけたことから、天体に興味をいだき、天文学も学びました。

大学を卒業したケプラーは、教授としてオーストリアのグラーツ大学にまねかれました。そして、数学と天文学を教えます。教だんに立つかたわら、こつこつと天文学の研究をつづけ、その成果を『宇宙の神秘』という本にまとめました。コペルニクスの地動説にもとづいて書かれた論文です。

ケプラーは、1600年チェコスロバキアのプラハに、チコ・ブラーエを訪ねました。ブラーエは、世界最大の天文台で観測をつづけていた有名な学者です。しかも、皇帝の保護をうけて、高い地位にいました。ケプラーは助手となって、惑星の位置表を作る仕事を始めます。ところが1年ごに、ブラーエが死んでしまい、ケプラーは任務をうけついで、それから10年あまり、惑星の観測にうちこみました。

皇帝の保護とは名ばかりで、パンさえ買えない苦しい生活がつづき、幼いときから病気がちだったからだは、いっそう弱り、とうとう胸の病気におかされてしまいました。病気とまずしさのなかから1609年、ついに『新天文学』が発表されました。惑星の軌道は、それまで考えられていた正確な円ではなく、だ円であるという新学説です。のちにニュートンの万有引力にもつながる、たいへんな研究でした。

ケプラーは、1612年に生活できなくなったプラハを去り、オーストリアのリンツに移り、中学校の数学教師になりました。ここでも給料がおくれたり、もらえなかったりのみじめな暮らしぶりで、暦を作ったり、星占いをしてやっと暮らしをささえるありさまです。

どん底の生活にありながら1619年には「ケプラーの法則」を完成させて、近代天文学におおくの業績をのこしました。1630年、収入のあてをたよって出た旅先で、苦しみつづけた人生の幕を静かにとじました。


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