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(7)

ハイドン(1732−1809)

作曲家ハイドンのふるさとは、オーストリア東部のローラウという村で、むかしから歌や踊りのさかんな地方です。ハイドンは、音楽的な環境にめぐまれて育ちました。本格的に音楽の修行にうちこみはじめたのは、6歳ごろからです。まず、ハインブルクの音楽教師について、2年ほどきびしい指導をうけました。8歳になるとウィーンへでて、シュテファン聖堂の少年合唱団にはいりました。

合唱団員としてのハイドンは、ボーイソプラノで、しばしば独唱者をつとめるなど、人びとの注目をあつめていました。しかし、17歳になると声変わりで歌えなくなり、合唱団を去らなければなりませんでした。

家が貧しかったので帰ることもできず、ハイドンは途方に暮れました。屋根裏を借りて、そこで音楽教師をしたり、流しのバイオリンひきになったり、各地をてんてんとしながら生活をささえました。ハイドンは、そのあいまに作曲をてがけ、かずかずの交響曲や4重奏曲を生みだして、作曲家としての才能をあらわしていきました。

1761年、名門貴族エステルハージ家の管弦楽団副学長になりました。やがて第1指揮者となり、新曲をつくってはエステルハージ公にささげるという生活を、約30年間つづけました。

楽員たちが長時間の演奏につかれてしまったある夜、ハイドンは新しい交響曲の指揮をはじめました。曲は、最後に近づくにつれてゆっくりとなり、楽器の奏者が、一人、また一人、自分のまえのろうそくを消して舞台を去っていくのです。そしてとうとう、1本のろうそくのまえのバイオリン奏者とハイドンだけになり、曲は終わります。それぞれの楽器が、しだいに演奏をやめてしまうめずらしい技法の『告別』という曲です。人びとは盛大な拍手をおくりました。エステルハージ公は、楽員が毎日の演奏につかれはてていることを思いやった意味に気づき、2週間の休みをあたえたということです。

ハイドンは、100以上の交響曲と80曲もの弦楽4重奏曲をのこしました。『天地創造』『四季』などの名曲は、ハイドンの代表作です。古典音楽のうえでソナタ形式をうちたてたことも、ハイドンの功績としてたたえられます。

1809年5月、ハイドンは、ウィーンに攻めいるフランス軍の砲声をききながら、世を去りました。ハイドンが亡くなったことがつたわると、オーストリア軍もフランス軍も、戦いを中断して、偉大な作曲家の死をいたみました。


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