オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(9)

ハイネ(1797−1856)

ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは、少年時代から、人間の自由を愛しながら成長しました。ユダヤ人の子として生まれ、生まれたときから人種差別を受ける悲しみを背負っていたからです。また、故郷デュッセルドルフの町がナポレオンの軍隊に占領され、輝かしいフランス革命の「自由・平等・博愛」の思想につつまれて育ったからです。

ハイネは、父や叔父のいいつけで、初めは、商人の道へ入りました。しかし失敗に終わり、つぎには、法律を学ぶために大学へ進み、やがてはジャーナリストを志すようになりました。

詩人ハイネの花が開きはじめたのは、このころからです。ふたりのいとことの恋にやぶれて、その悲しみを叙情詩につづり、ハルツ地方やイギリス、イタリアをまわって、その思い出をみずみずしい詩や旅行記に記しました。

30歳のとき詩集『歌の本』を発表すると、自分の心をすなおにうたいあげた叙情詩人として、広く、人びとに愛されるようになりました。のちに、シューマン、ジルヒャー、シューベルトらによって作曲された『美しい5月』『ローレライ』『海辺にて』などが収められているのも、この詩集です。

叙情詩をつづるいっぽう、人間の自由を愛する心を育ててきたハイネは、1830年にフランスで7月革命がおこると、つぎの年、ひとつの決意をしてパリへ亡命しました。

「フランスは自由主義国家へ生まれ変わろうとしている。ドイツも、早く、古い封建政治をうちくずさなければだめだ」

ハイネは、祖国ドイツを生まれ変わらせるために、ペンの力で闘うことを決心したのです。祖国を愛していたからです。

住まいをパリに定めたハイネは、フランスの芸術家、政治家と交わりながらペンをとり、フランス人には、ドイツのほんとうの文化をつたえました。そして、祖国ドイツへは、フランスの芸術や社会のようすを書き送り、ドイツの人びとも自由のために立ちあがらなければいけないことを、説きつづけました。このため1835年には、ドイツ政府から、ハイネの書いた本はすべて、国内での発行を禁止されてしまいました。

しかし、ハイネは、ペンを捨てませんでした。47歳のときには革命をうたった長編詩『ドイツ冬物語』を著し、そのご脊髄病で病床にくぎづけになってからも、物語詩集『ロマンツェーロ』を完成させました。いま、愛と革命の詩人ハイネは、名曲『ローレライ』を口ずさむドイツの人びとの心に、美しく生きています。そして、世界の人びとの心にも……。


もどる
すすむ