オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(9)

メンデルスゾーン(1809−1847)

フェリックス・メンデルスゾーンは、19世紀前半の、ドイツの作曲家です。大銀行家を父に、ハンブルクに生まれ、幼いときから、教養豊かな母にピアノをおそわりながら育ちました。

1811年、一家は、ドイツ文化の中心地ベルリンへ移りました。

メンデルスゾーンは、まもなく、すぐれた音楽教師から、正式にピアノと作曲を習いはじめました。父の招きで家の大広間に集まった芸術家たちには、たいへん、かわいがられました。また、大広間では、いつも音楽会が開かれ、めぐまれた環境につつまれて自分の才能をのばすことができたメンデルスゾーンは、このうえなく幸せでした。

9歳のときには早くもピアノ演奏会を開いて、人びとのかっさいをあびました。また、その3年ごにはゲーテをたずね、バッハやモーツァルトの曲を演奏して、このとき72歳だったドイツ最大の文豪をすっかり感心させました。

15歳のころから、交響曲、協奏曲、歌劇の作曲を始めました。そして、17歳のとき、シェークスピアが書いた喜劇に感激して『真夏の夜の夢』の序曲を発表すると、作曲家メンデルスゾーンは、たちまち、世界の大作曲家たちと肩を並べるほどになりました。

音楽を広く愛したメンデルスゾーンは、作曲だけではなく、音楽会では指揮棒をふって、かずかずの名曲を人びとに贈りました。

なかでも、1829年に、バッハの死ご80年ものあいだ1度も演奏されたことがなかった『マタイ受難曲』を指揮して、バッハの偉大さをふたたび世に知らせたことは、大きな功績でした。

ピアノ演奏家、作曲家、指揮者として名を高めたメンデルスゾーンは、24歳の年から、ドイツ音楽界の指導者として活やくするようになりました。デュッセルドルフ市の音楽監督、世界で最も古いゲワントハウス管弦楽団の指揮者、ベルリン芸術大学の教授などに、つぎつぎにむかえられたのです。また、ライプチヒ音楽学校をつくり、数年のうちに、ヨーロッパ最高といわれるほどの音楽学校に育てあげました。

1844年に名曲『バイオリン協奏曲』を発表して、つぎの年にはいっさいの職をしりぞき、作曲ひとすじの生活に入りました。しかし、おそすぎました。休みなく仕事をつづけてきたメンデルスゾーンのからだは、すっかり弱り、1847年に心からしたっていた姉が亡くなると、同じ年に、姉のあとを追うようにして38歳の短い生涯を終えてしまいました。


もどる
すすむ