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シューマン(1810-1856)

『トロイメライ』で親しまれているドイツの作曲家ローベルト・シューマンは、幼いころから音楽がだいすきでした。7歳で、すでに作曲を始めたといわれています。また、10歳ころから、ハイネやバイロンらの叙情詩を愛するようになり、音楽と文学にひたって少年時代をすごしました。

しかし、16歳のときに父を亡くし、やがて、法律を学ぶために大学へ進みました。生活の安定した道へ進んでくれることを願う母に、さからうことができなかったからです。でも、音楽への夢を断ち切れないシューマンは、母に秘密で、ピアノや作曲を学びました。そして、20歳の年の春、イタリアのバイオリン奏者パガニーニの演奏を聞いたとき、もう、だれにも動かすことのできない決断をしました。

「音楽はすばらしい。やはり音楽家になろう!」

シューマンは、有名なピアノ教授ウィークの弟子になりました。ところが、ピアノにうちこみ始めて2年めに、むりな練習がたたり指をいためてしまいました。もう、ピアニストにはなれません。シューマンは、作曲家をめざす決意をしました。

『謝肉祭』『交響的練習曲』『子どもの情景』。五線紙を前にしたシューマンは、春の野の光のような美しい曲を,つぎつぎに生みだしていきました。このころ、ウィークの娘クララとひそかに愛を誓いあっていたシューマンは、あふれでる愛を名曲にちりばめて、クララへささげたのです。

1840年の秋、ウィークの反対をおしきって、クララとむすばれました。シューマンは幸せでした。ペンをとれば、うちふるえるような喜びが名曲になって、歌曲集『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』などがほとばしりでました。また、それでもおさえきれない歓喜は『第1交響曲・春』『第4交響曲』『第3交響曲・ライン』などを生み、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家の地位を、きずいていきました。

いっぽう、文学に親しみ文才にもめぐまれていたシューマンは、音楽評論家としても活やくして、ショパン、ブラームス、メンデルスゾーンなどの音楽家を、世に送りだしました。

30歳から40歳にかけては交響楽団の指揮棒もふり、さらにおおくの曲を作りました。しかし、1856年の死は、あまりにも不幸でした。若いころからの精神病がひどくなってライン川に身を投げ、救助されて精神病院に閉じこめられたまま、2年ごに46歳の生涯を終えたのです。シューマンは、音楽と、詩と、そして妻クララを愛しすぎたのかもしれません。


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