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(11)

メンデル(1822−1884)

「親と子どもは、なぜ、よく似るのだろう」

むかしからの、この疑問を、エンドウ豆の実験でときあかしたのが、ヨハン・グレゴール・メンデルです。

メンデルは、1822年オーストリアの果樹園に生まれました。子どものころから父と母の仕事をてつだって、くだものや花をさいばいするのがだいすきでした。赤や黄色の花をとびかうミツバチを観察したり、果樹のつぎ木に工夫をこらしたり、楽しい幼年時代をすごしました。

ところが、メンデルが17歳になったとき、父が大けがをして、家はすっかり貧しくなってしまいました。そこで、メンデルは修道院に入ることにしました。食べるための心配をしないで、すきな学問ができると考えたからです。そして神父の勉強をしながら、大学を卒業して、中学校で理科を教えるようになりました。しかし、先生になる資格をもっていないため、正式の教師ではありませんでした。

メンデルは、正式の教師になるために、国の試験を受けました。でも、どうしたことか、試験には合格しませんでした。

「正式の教師にはなれなくても、研究はできる」

メンデルは、修道院の庭に草花を植えて、同じ植物の花でも色違いのものが咲く原因の研究を始めました。そして、ダーウィンが書いた『種の起源』という本を読み、こんどは草花のかわりにエンドウ豆を植えて、花粉のかけあわせによる遺伝の研究にむちゅうになりました。遺伝には、きっとひとつのきまりがあると考えたからです。

花や実の色や形が違うエンドウ豆を植え、その花粉をピンセットで移してやって、とれた種をまた植えるという実験を、8年ものあいだつづけました。

「2代め3代めにあらわれる、規則正しい性質がわかったぞ」

1865年、メンデルは、『植物雑種の研究』という論文をまとめて発表しました。ところが、名も知れず、正式の教師でもない男の研究など、だれも理解してくれませんでした。メンデルは悲しみました。

やがて修道院の院長になると、こんどは、修道院に税金をかけようとする国の権力とたたかいつづけて、1884年に、62歳でさみしくこの世を去りました。

メンデルの遺伝の法則が世界でみとめられたのは、それから16年ものちのことです。実験を続けた修道院には、いまでは大理石の像がたてられ、遺伝学の父とよばれるようになりました。


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