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フォスター(1826−1864)

100年の歳月を越えて世界の人びとに口ずさまれている『おおスザンナ』『草けいば』『こきょうの人びと』『なつかしきケンタッキーホーム』。このほか、およそ180の名曲を作ったステファン・コリンズ・フォスターは、1826年、アメリカ東部のペンシルベニア州ピッツバーグ市で生まれました。才能のある実業家を父にもち、10人兄弟の9番めでした。

12人の家ぞくは、みんな音楽がすきでした。なかでもフォスターは、おさないころからいろいろな楽器にしたしみ、子どもの楽隊では、いつも、とくいになって指揮をとっていました。また、9歳のときには、近所の子どもを集めて劇団をつくり、自分は主役をしたり、フルートをふいたりして、出演料をかせいだこともありました。そして、14歳で中学校を卒業するときには、卒業式のために『ティオガ円舞曲』を作曲して、先生たちをおどろかせました。

15歳でジェファソン大学に入学しました。しかし、わずか1週間でやめてしまいました。音楽の道を、どこまでも進みたかったからです。

「よし、だれもがうたってくれる歌をつくろう」

フォスターは、理解のある父母や、やさしい兄たちに助けられながら、ピアノ演奏や作曲や外国語を学びました。そして、18歳で歌曲『窓をあけたまえ』を発表してからは、つぎつぎに詩を書き曲を作るようになりました。そして『おおスザンナ』が人びとのあいだでうたわれるようになると、フォスターの名まえは、またたくまにアメリカじゅうに知れわたっていきました。

心のやさしいフォスターは、アフリカからつれてこられた黒人奴れいたちのためにも、たくさんの歌を作りました。『オールド・ブラック・ジョー』は、さみしく死んでいっためし使いのジョーにささげたものです。

また、愛する妻のためにも『金髪のジェニー』『小さいジェニー・ドウ』などの美しい歌を作り、しあわせな家庭をきずいていきました。

ところが、リンカーンが大統領になった1860年にニューヨークへでてからは、しだいに生活が苦しくなり、南北戦争がはじまって4年めの1864年に、思いがけないけがで、あっけなくこの世を去ってしまいました。まだ、38歳という若さでした。

フォスターは、ベートーベンやモーツァルトのような大音楽家ではありません。しかし、素朴な歌のかずかずは、国境を越えて、人びとの心にやさしい灯をともしつづけています。


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