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(11)

ビゼー(1838−1875)

歌劇『カルメン』の作曲者ジョルジュ・ビゼーは、おさないころから、すばらしい音楽の才能をもっていました。

父は声学教師、母はピアニストでした。1838年にビゼーがパリの近くで生まれたときには、すでに大音楽家になる運命をせおっていたのかもしれません。ビゼーがわずか9歳でパリの国立音楽院に合格すると、教授たちは、いっせいにさけびました。

「この子は天才かもしれない、きっと大音楽家になるぞ」

学校で学びはじめたビゼー少年は、たちまちのうちに、どんな難しい曲でも理解するようになりました。ピアノ演奏、オルガン演奏、さらに作曲などで賞をとり、19歳でローマ大賞まで受賞して音楽院を卒業すると、胸をふくらませてローマへ留学しました。

ところが、3年間のローマ留学を終えてパリへもどってきたときから、天才ビゼーの苦しみがはじまりました。

作曲家の道をあゆみはじめたビゼーは、歌劇や管弦楽曲をつぎつぎに発表しました。しかし人びとは、どの曲にも拍手をおくりません。そのころのパリでは、おもしろおかしい歌劇が流行していたので、芸術を理解する人は、あまりいませんでした。

曲が売れないビゼーは、ピアノの先生や、作曲の指導や、楽譜出版の手つだいなど、いろいろな仕事をして生活をささえました。しかし、どんなに生活に困っても、金もうけのために作曲することは、けっしてありませんでした。ビゼーにとって、音楽は芸術であって、商売ではないと考えていたからです。

ビゼーの曲が、はじめて絶賛をあびたのは、34歳のときに発表した『アルルの女』という劇の音楽でした。ところが、その2年ごに作曲した歌劇『カルメン』は、力づよい合唱と、はげしいせんりつが、理解されず、評判は良くありませんでした。また、カルメンが、さいごにはホセという男に殺されるという物語の悲しさに、明るさを求めるおおくの人は顔をそむけてしまいました。

「わたしの音楽が、なぜ、わかってもらえないのか」

ビゼーは、頭をかかえて悲しみました。そして、この深い悲しみから、立ち直るひまもなく、36歳の若さで永遠の眠りについてしまいました。苦しい生活で、いためていた心臓を悪くしてしまったのです。

ビゼーは不幸でした。でも『カルメン』は、いまもなお、フランスオペラの最も人気のある代表作として、おおくの人びとからかっさいをあびています。


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