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(12)

チャイコフスキー(1840ー1893)

『白鳥の湖』という、有名なバレエがあります。悪魔に魔法で白鳥にかえられてしまった姫と、その姫に愛をちかった王子との、美しい恋の物語です。

この『白鳥の湖』を作曲したピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年に、ロシアのボトキンスクという町で生まれました。父は、鉱山の技師でした。

父も母も音楽を愛する家庭に育ったチャイコフスキーは、幼いころから、名曲を聞き、ピアノをひくのが大すきでした。でも、小学校を卒業すると、上流家庭のしきたりにしたがって法律学校へ進みました。

19歳で役人になりました。しかし、役人のきまりきった生活がいやになり、わずか3年で役所をやめると、ペテルブルク音楽院へ入って作曲の勉強を始めました。母や、しんせきの人たちは反対しましたが、父だけは、自分の道を自分で選ぼうとするわが子を許しました。

「わたしの生きる道は、やはり、これしかなかったのだ」

チャイコフスキーは、宿題で10曲ほど作曲してくるようにいわれると、200曲も作って先生をおどろかせるほど勉強しました。そして、音楽院をすばらしい成績で卒業すると、つぎの年に、モスクワ音楽学校の先生にむかえられました。

「ロシアの古い音楽と、西ヨーロッパの新しい音楽をとけあわせて、だれにでもしたしめる曲を作ろう」

生まれつき内気で孤独な性格だったチャイコフスキーは、ひとりで小さな家に住んで、交響曲、弦楽4重奏などを次つぎに作りました。『白鳥の湖』を作曲したのは36歳のときです。

37歳で、音楽院の教え子と結婚しました。ところが、性格が合わず、わずか2か月で別れてしまいました。心に深い傷をおったチャイコフスキーは、一時は、自殺を考えたほどでした。

「恋は失ったが音楽がある。音楽に、すべてをささげるのだ」

やがて学校をやめ、ある金持ちの援助を受けて作曲ひとすじに情熱をそそぐようになり、名曲『イタリア奇想曲』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』などを生みだしていきました。また、作曲だけではなく、世界各地へ演奏旅行に出かけて、自分で指揮棒をふり、身も心も、音楽にひたりました。

最後の曲になったのは、人間の深い悲しみを表現した第6交響曲『悲愴』です。この曲が初めて演奏されてわずか9日後に、コレラにかかって53歳の生涯を閉じてしまいました。まるで『悲愴』を自分のために作ったような、死にかたでした。


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