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(12)

ドボルザーク(1841ー1904)

チェコ西部に生まれ、町から町へさまよい歩くジプシーたちの音楽を耳にしながら育ったアントニン・ドボルザークは、幼いころから、心に音楽の火をともして成長しました。

ところが、12歳になったとき、父に「家にはお金がない」とさとされ、肉屋へ、はたらきにだされてしまいました。でも、夢を捨てきれないドボルザークは、父にかくれて音楽を学び、16歳でプラハのオルガン学校へ入って苦学をつづけました。そして卒業ごは、昼は音楽の家庭教師、夜はホテルの楽団員をして、音楽家への道をあゆみはじめました。また、21歳から12年間は、プラハの国民劇場管弦楽団のビオラ奏者をつとめながら、作曲にもはげみました。

「わたしは、チェコ人だ。チェコ民族の音楽を作ろう」

このころのチェコは、オーストリアに支配されていましたが、ドボルザークは祖国愛にもえて、作曲にとりくみました。

34歳のときに、幸運がおとずれました。

オーストリア政府から、すぐれた芸術家として奨学金が支給されるようになり、そのうえ、祖国の美しさと人びとのやさしさをたたえた『スラブ舞曲』が、ドイツの大作曲家ブラームスにみとめられたのです。また、ブラームスの協力で『スラブ舞曲』などの楽譜が出版され、作曲家ドボルザークの名は、ヨーロッパじゅうに広まりました。

50歳でプラハ音楽院の教授にむかえられ、さらにつぎの年にはニューヨークの音楽学院に院長としてまねかれ、アメリカへ渡りました。交響曲『新世界より』、弦楽4重奏曲『アメリカ』などを作曲したのは、このときです。

「人間の愛と、ふるさとへの思いにみちあふれた美しい曲だ」

『新世界より』が演奏された日のカーネギー・ホールは、超満員の人であふれ、われるような拍手がなりやみませんでした。しかし、祖国の自然が恋しくてしかたがないドボルザークは、わずか3年でアメリカをはなれ、プラハへ帰りました。そして、おおくの協奏曲、交響曲、歌劇を生み、プラハ音楽院院長やオーストリア上院議員をつとめ、63歳で世を去りました。

ドボルザークは、蒸気機関車が大すきでした。幼いときから、黒い鉄のかたまりの力強さともの悲しさに心をひかれ、60歳ちかくになっても、散歩のときには機関庫へ立ち寄って、ひとり静かに機関車をながめていたということです。

ドボルザークは、祖国を愛しつづけた心のやさしい音楽家でした。そのやさしさが、チェコ国民音楽のきそをきずきました。


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