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(13)

ゴーガン(1848-1903)

1848年にパリで生まれたポール・ゴーガンは、子どものころは、画家になろうなどと考えたことはありませんでした。

中学校を卒業すると17歳で船乗りになり、6年間、商船や軍艦に乗って世界の海をまわりました。そして23歳のときに海軍水兵をやめて証券会社に入り、それから12年間は、ふつうのサラリーマン生活をつづけました。

絵は、25歳ころからかきはじめていましたが、画家として生きていくことを決心したのは、35歳のときでした。

このときすでに、5人の子どもの父親だったゴーガンは、生活費をかせぐために町の広告張りまでやりました。初めての個展は失敗に終わり、それに妻とは別居しなければならず、画家への道はきびしいものでした。しかし、パンと水だけの生活にもたえて、がんばりつづけました。

40歳のときに、画家ゴッホにまねかれて地中海に近いアルルで暮らそうとしました。ところが、精神病の発作におそわれたゴッホが、自分の耳をかみそりで切り落としてしまう事件が起こり、ゴーガンは、わずか2か月でパリへもどりました。

このころからゴーガンは、文明によごれた都会の暮らしに、うんざりするようになりました。

「人びとが自由にのびのびと生活している、南の島へ行こう」

熱帯の島にあこがれた43歳のゴーガンは、絵を売って、お金をつくると、たったひとりで南太平洋に浮かぶタヒチ島へ渡りました。それから2年ご、いちどだけフランスへもどりましたが、ふたたびタヒチへ向かい、のちにはマルキーズ諸島に移って絵をかきつづけました。

島での生活は、らくではありませんでした。絵をフランスへ送ってお金にかえたり、島の役所ではたらいたりしながら、やっと暮らしをささえました。病気と孤独の苦しさのあまり、自殺をはかったことさえありました。

『かぐわしき大地』『白い馬』『黄色いキリスト』などの傑作を生んだゴーガンは、島の人びとと、深く結ばれていました。貧しい人たちと力をあわせて、島の支配者ともたたかいました。だからゴーガンが心臓病で亡くなったとき、島の人びとは、父を失ったかのように悲しみました。

ゴーガンの生涯は、けっしてしあわせではありませんでした。しかし、孤独や貧困とたたかうことによって、単純な形と単純な色の、ゴーガンだけの絵を生みだしました。人のまねをしなかったゴーガンこそ、ほんとうの芸術家でした。


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