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(13)

ザメンホフ(1859-1917)

ルドウィク・ラザロ・ザメンホフは、エスペラント語という国際語を考えだして、それを世界に広めた人です。

ポーランドのビアウィストクという町に生まれたザメンホフは、中学校で語学と地理の教師をしていた父に、早くから世界の言葉を学びました。また、やさしい母からは、人と人が助けあう愛情のたいせつさを教わって育ちました。

あたたかい家庭にいるときのザメンホフは、幸せでした。しかし、外へ出るたびに、心が暗くなってしまうことがありました。それは、町の人びとの間で、みにくい争いが絶えないことでした。ロシアに支配されていた、このころのポーランドには、ポーランド人のほかユダヤ人、ロシア人、ドイツ人など、さまざまな人が住み、それぞれ違う言葉を使っていました。そのため、人びとの心が、なかなか通いあわなかったのです。

やがて中学校へ進むと、言葉の違う民族どうしの争いは、世界がかかえている大きな問題だということを知りました。そして、いくつかの外国語を学んでいくうちに、みんなが同じ言葉を使うようになれば争いは少なくなるにちがいない、と考えるようになりました。

「そうだ、どこの国の人にも使いやすい、新しい言葉を作ろう」

ザメンホフは、つくえに辞書を積みあげて外国語の研究にとりくみ、19歳のときに、ひとつの国際語をまとめました。

ところが、言葉の研究は父に反対され、ザメンホフは大学の医学部へ入学させられました。せっかくまとめた国際語の原稿も、父の手で焼き捨てられてしまいました。

しかし、ザメンホフの信念はかわりません。医学のかたわら研究をつづけ、大学を卒業して眼科医になった2年めに、エスペラントというペンネームで、ついに完全な国際語を発表しました。

結婚して子どもが生まれた眼科医の生活は、あすのパンも買えないほど貧しいものでした。でも、ザメンホフは、こんどは国際語を広めることに全力をつくしました。そして1905年に、パリで開かれた第1回の万国エスペラント大会では、こみあげるなみだをこらえて、語りかけました。

「全世界の、全人類の大きな家族のみなさん……」

ザメンホフは、そのご『旧約聖書』や各国の文学作品をエスペラント語に翻訳する仕事をつづけて、57歳で世を去りました。エスペラント語は、いまも世界各国で使われ、日本にも、東京に日本エスペラント学会がおかれています。


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