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(13)

チェーホフ(1860-1904)

「人間には、だれにだって、よろこびもあれば悲しみもある。だから人間は、たとえ苦しくても生きていかなければならない」

このような考えで、だれにでもわかる劇や小説を書いたアントン・パブロビッチ・チェーホフは、1860年に、ロシア南部のタガンログという港町で生まれました。

雑貨屋を営んでいた父はとても乱ぼうな人だったので、少年のころのチェーホフは、よくなぐられました。そのうえ、16歳のときに父が破産して家族はちりぢりになってしまい、少年らしい楽しみなど、1度も味わったことがありませんでした。

しかし、チェーホフはふしぎなほど希望を失わず、家庭教師をしながら中学校を卒業しました。そしてモスクワ大学へ入学して、医者になるための勉強をしながら、授業料と生活費をかせぐために、短いユーモア小説を書きはじめました。

300編もの短編小説が、つぎつぎに新聞や雑誌に発表され、大学を卒業するころには、小説を書くだけで母や兄弟を養えるほどになっていました。ところが、あるとき有名な老作家から、たくさん発表するよりもすぐれた作品を書きあげていくことのほうがたいせつだと、思いやりのある忠告を受けました。

チェーホフは反省しました。そして、それからは人間の生きかたを深くみつめた作品を書くようになりました。

精神病院の医者が、患者から逆に狂人あつかいされて死んでいくすがたを描き、ロシアの暗い社会をひにくった『6号室』。愛情をささげる人によって、自分の生きかたまで変わっていく女性を描いた『可愛い女』。平凡な人生のなかの小さな光を見つめた『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』「桜の園』は、のちにチェーホフの4大戯曲といわれるようになりました。

大学を卒業したころから結核におかされていたチェーホフは、これらの名作を、病気とたたかいながら書きました。生きることを愛するやさしい心は、どの作品にもあふれでています。

チェーホフは、小説を書きつづけたばかりではありません。医者としても、島に流された罪人や伝染病に苦しむ人びとのためにはたらきました。さらに、自分で学校を建てたり、ふるさとの小学校に本を寄付したりして、社会のためにつくしました。

チェーホフの劇をよく理解していた女優クニッペルと結婚したのは41歳のときです。ところが、それからわずか3年のち、結核が悪くなってドイツの温泉地で亡くなってしまいました。

チェーホフの作品は明治時代から日本人にも親しまれ、とくに日本文学や演劇の発展に大きなえいきょうをあたえました。


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