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(14)

孫文(1866−1925)

中国の革命に一生をささげた孫文は、1866年、広東省香山県(いまの中山県)の農家に生まれました。

12歳のとき、兄のいるハワイへ渡って教育を受け、外国の進んだ文化に目をみはりました。やがて帰国して医学を学び、27歳の年に、医者としてはたらき始めました。

このころ満州民族の清朝に支配されていた中国には、正しい法律もなく、人びとは、権力をふりまわす王朝に、いつもおさえつけられていました。ところが、そんな清朝も、外国に対する力は弱く、1894年に起こった日清戦争では、日本に負けてしまいました。

「このままだと、中国人はみじめになるばかりだ。早く清朝をたおして、新しい中国をつくり、政治を変えなければだめだ」

孫文は、同じ考えの人びとと手を結んで立ちあがりました。しかし1895年、広州で革命ののろしをあげようとしたとき、ひそかに進めていた計画がばれてしまいました。

故国をのがれ、いくつもの国ぐにを渡った孫文は、おおぜいの外国人や、外国にいる中国人によびかけて、革命を成功させるために協力を頼みました。

1905年には、東京に中国革命同盟会をつくり、革命の旗じるしとして、民族・民権・民生の三民主義を高くかかげました。

「中国内のすべての民族は平等でなければならない。国の政治に対する国民の権利は平等でなければならない。国民ひとりひとりの生活の豊かさは平等でなければならない。」

国民みんなの力で、国民みんながしあわせになれる中国を建設しようという孫文の考えは、しだいに実を結び始めました。

やがて、同盟会の人びとは次つぎに中国へ帰り、大陸の各地で、国の権力をうちやぶる戦いを始めました。1912年、ついに清朝を倒し、中華民国をうちたてました。これは辛亥革命とよばれています。そして、臨時の大統領にえらばれたのが、16年ぶりに祖国へ帰った孫文でした。
 
しかし、新しい中国の建設は、ほんとうに成功したわけではありませんでした。まもなく、孫文にかわって軍人の袁世凱が大総統になると、むかしの権力国家へもどり始めたのです。

孫文は、中国国民党をつくって、またもや立ちあがりました。しかし、1925年、国民会議を開こうという計画をいだいたままガンにたおれ、58歳の生涯を閉じてしまいました。孫文は、新しい中国を見ることはできませんでしたが、その第一歩をふみだしたことで、いまも革命の父としてたたえられています。


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