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(16)

ピカソ(1881ー1973)

「物を、目に見えたとおりにえがく必要はない。目で見て自分の心で感じたもの、考えたものを、自由にえがけばよい」

ピカソは、ほとばしる情熱のままに芸術を愛しつづけた、20世紀最大の画家のひとりです。

スペインの古い町マラガで生まれたパブロ・ピカソは、小学校へ通いはじめても、学校がきらいでした。夢中になったのは絵をかくことだけです。父が美術学校の先生でしたから、自然に、絵を愛する心に灯がともったのかもしれません。

16歳のとき、すばらしい成績で、首都マドリードの王立美術学校へ入学しました。でも、ピカソの才能は、形にはまった授業に満足できず、しだいに学校から遠ざかってしまいました。

「もっと新しいものを学ばなければだめだ。パリへ行こう」

19歳で、芸術の都パリへでたピカソは、若い芸術家たちと交わり、美術館へ通い、個展を開いて、画家への道を歩みはじめました。そして、初めは、貧しい母親、老人、浮浪者などに心をよせて、人生の孤独と悲しみを青色でえがき、つぎには、旅芸人やサーカスの道化師たちをモデルにして、人間が悲しみをおさえて生きるすがたを、こんどは桃色でえがきました。ピカソの、心でとらえるえがき方が、色を変えさせたのです。

ピカソが、ほんとうに注目されるようになったのは、26歳の年に『アビニョンの女たち』を完成させてからです。絵のなかの女たちの顔やからだは、ひどくゆがんでいます。ピカソが、自分の心でとらえた女を、えがいたからです。おおくの画家たちから「ピカソは気がくるったのだろう」とさえ、思われました。しかし、ピカソは平気でした。やがて、この絵のえがき方はキュビスム(立体主義)とよばれるようになり、20世紀の新しい美の世界を生みだしていきました。

そのごのピカソは、目で見たままの写実主義の絵をかいたかと思えば、人体を怪物のように変形させた絵や、何がえがかれているのかわからないような、超現実的な絵もかきました。また、第2次世界大戦や朝鮮戦争が始まったときは『ゲルニカ』『戦争と平和』などの大作を発表して、戦争をおこした人びとに、はげしく抗議しました。

ピカソは、絵のほかに、版画、彫刻、陶器などの制作にもいどみ、さらに、舞台装置も手がけ、詩や戯曲も書き、からだのなかの芸術愛の火をもやしつくして、1973年に91歳で亡くなりました。つねに新しいものを求め、つねに飛躍しつづけた、はげしく大きな生涯でした。


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