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(17)

ネルー(1889-1964)

ネルー家は、インドのカースト制度ではいちばん上の、バラモンという家がらです。父は名だかい弁護士で、しかもたいへん教養のある人でした。ひとり息子のネルーは、プールのある大きなやしきで、たくさんの召使いや家庭教師にかこまれながら、めぐまれた少年時代をすごしました。

15歳のときには、イギリスに渡り貴族の学校として有名なハロー校で学んだのち、名門のケンブリッジ大学にすすみました。法律を学び、弁護士の資格をとってインドに帰ったのは、1912年のことです。

そのころのインドは、イギリスの支配に苦しんでいました。そこでネルーは、イギリスからの独立を旗じるしにした国民会議派に加わりました。

第1次世界大戦後に、ネルーは国民会議派のリーダー、ガンジーに会い、その人がらや考え方に深い感動を受けました。

1920年、ネルーはなかまたちといっしょに、インドの農村をまわったときのことを、次のように記しています。

「わたしを見てかけよってきた村人たちの顔には、長いあいだの貧しさがしみついていた。ボロをまとい、飢えに苦しみ、心をとざして悲しい生活をしているインドの人びと。この国の貧しさ、みじめさをまのあたりにして、わたしは自分が強く責められる思いがした」

地主からどれいのようにこき使われ、苦しんでいる農民のほんとうのすがたを見たのです。ネルーがインドの独立と国づくりのために全力をつくすようになるのは、それからでした。

イギリスは独立運動に激しい圧力を加え、ネルーは何回となくとらえられ刑務所に入れられました。しかしネルーの情熱と指導力は、おおくの人びとを支えました。やがてネルーは国民会議派の議長に選ばれてガンジーを助けるようになりました。とかく理想にかたむきすぎるところのあるガンジーの考えを、ネルーはインドの現実に合わせたやり方でおぎないました。

第2次大戦後の1947年8月、イギリスはついにインドの独立を認め、インド連邦が誕生しました。

首相と外相をつとめることになったネルーは、世界が資本主義国と社会主義国とに分かれて勢力を張りあうことになっても、どちらにも加わらず、対立をやわらげるために活躍しました。

貧しい農業国のインドは、独立後もむずかしい問題を山ほどかかえていました。インドを独立に導いたネルーは、こんどは安定した国づくりに情熱をささげ、74歳で亡くなりました。


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