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(18)

フルシチョフ(1894-1971)

ニキータ・フルシチョフは、20世紀の、ソ連の政治家です。1894年に、ウクライナの炭鉱労働者の家に生まれ、初等教育を終えると、すぐ、炭鉱や工場ではたらきはじめました。

フルシチョフが11歳のときに第1次ロシア革命、23歳のときに第2次ロシア革命(2・10月)がおこり、皇帝が支配した国の政治がくずれて、社会主義のソビエト政府が生まれました。

少年時代から労働者の社会に入ったフルシチョフが、この革命のえいきょうを強くうけたのはとうぜんです。24歳でロシア共産党に入り、はたらきながら政治運動にくわわりました。

4年後、28歳になったフルシチョフは、党から、ソビエト労働者学校に学ぶことがゆるされました。また、35歳のときにはモスクワのスターリン記念工業大学に学ぶこともゆるされ、大学卒業後、モスクワ市の党委員会書記に任命されて、政治家への道を歩みはじめました。そして、党の組織をかためる仕事のかたわら、モスクワの地下鉄の建設に力をつくし、地下鉄が完成した1935年にはレーニン勲章をうけました。

フルシチョフが、ソビエト社会主義共和国連邦のなかで大きな力をもつようになったのは、30年にわたって政権をにぎってきたスターリンの時代が、1953年に終わりをつげてからです。

「スターリンの独裁的な政治には、権力のゆきすぎがあった」

まず、スターリンをひはんすることから始めたフルシチョフは、やがて1958年には首相となり、国民の生活を豊かにすることを考えるいっぽう、積極的な外交政治にのりだしました。

「戦争は、さけることができる。われわれは、資本主義の国ぐにと、平和的に競争し、共存していく」

党大会で、このようにさけんだフルシチョフは、1959年にはアメリカのアイゼンハウアー大統領、さらに2年後にはケネディ大統領と会談して、ソ連とアメリカの友好を強めました。

ところが、1962年に、カリブ海のキューバにソ連のミサイル基地をつくろうとしたことから、いまにも、アメリカとのあいだに戦争がおこりそうになりました。このときフルシチョフは、キューバの共産政府にアメリカが口だししないことを条件に、ミサイル基地の建設をとりやめて、危機をのりこえました。

しかし、2年後の1964年には、書記と首相の地位を追われてしまいました。資本主義国との共存に目をむけすぎて、中国との仲を悪くしてしまったことや、農業の発展に失敗したことなどが、強いひはんをあびてしまったのです。資本主義国との平和共存。これがフルシチョフの残した最大のものでした。


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