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卑弥呼(?−247?)

卑弥呼は、聖徳太子が生まれるよりも300年以上もまえの3世紀ころ、邪馬台国を治めていた女王です。

このころの日本の歴史を文字で正しく伝えたものは、日本にはありません。ところが、中国の『三国志』という本の「魏志倭人伝」の部分に、卑弥呼のことが書き残されています。

「倭人伝」によると、卑弥呼は、始めは神につかえる巫女でしたが、やがて邪馬台国の女王としてあおがれ、そのころ倭の国とよばれていた日本のなかの、29の小国を支配するようになりました。

女王の卑弥呼は、1000人もの女のどれいにつきそわれて宮殿の奥ふかくにすみ、めったに、すがたを見せませんでした。いつも宮殿の奥で神に祈りをささげ、神のおつげを人びとに伝えて国を治めていました。弟が、卑弥呼をたすけて、神のおつげにしたがって政治をおこなっていたということです。

科学も文明もまったく発達していなかった時代の人びとは、すべてのことを神にすがって生きていました。だから、すぐれた巫女の力をもっていた卑弥呼を女王に選び、卑弥呼の命令を神のことばだと信じて、国の政治をすすめていたのです。

239年に卑弥呼は、中国の魏の国へ使者をつかわし、友好のしるしにみつぎものをささげました。すると、おおいによろこんだ魏の明帝は、卑弥呼に、親魏倭王の名をあたえて金印をさずけ、さらに、返礼の使者を日本におくってきました。

3世紀ころの中国の歴史をまとめた『三国志』に、邪馬台国と卑弥呼のことがしるされることになったのは、こうして、邪馬台国と魏の国とのまじわりが始められたからです。

卑弥呼は、247年ごろ亡くなったといわれています。生まれたときが不明ですから死亡のときの年齢もわかりません。

「倭人伝」の記録では、女王のなきがらは、大きな墓にほうむられ、その墓には、100人あまりのどれいが生きうめにされたといわれています。

邪馬台国は、卑弥呼が死んだあと男子が王になりました。ところが、どうしたことか、国内はたちまちみだれてしまいました。そこで、13歳の少女を女王にたてると、国は、あらしがやむように、ふたたび平和にもどったということです。

邪馬台国は、いったい日本のどこにあったのか、それは、中国の歴史書でも、日本の歴史学者の研究でも、まだわかりません。いまの奈良地方、あるいは北九州地方などにあったといわれていますが、ほんとうのことは、不明です。


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