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(19)

仁徳天皇(生没年不明)

大阪府堺市に、前の方は四角でうしろの方は円く、全体の長さが486メートル、前方の幅が306メートル、そのまわりに堀をめぐらした、前方後円墳とよばれる日本最大の墓があります。1日に1000人ずつはたらいたとしても、完成までには、4年以上かかったにちがいないといわれる、仁徳天皇陵です。

しかし、この陵が、まちがいなく仁徳天皇の墓であるかどうかは、まだ完全にはわかっていません。それは、陵の中心部のことがまだ明らかにされていないうえに、仁徳天皇の生まれた年や亡くなった時代が、はっきりしていないからです。

のちに天皇の命令によって書かれた『日本書紀』によると、仁徳天皇は第16代めの天皇にあたるといわれています。父は応神天皇、母は仲姫命です。

仁徳天皇は、たいへん慈悲ぶかい人だったといわれ、つぎのような話が伝わっています。

あるとき天皇は、難波(大阪)に建てた宮殿の高いところから、人びとの暮らしをながめました。ところが、食事のしたくをする時刻だというのに、人びとの家からは煙がたちのぼっていません。これを見た天皇は、人びとは貧しくて煮たきしたものをたべることもできないのだろうと考え、それからのち3年のあいだ、けらいに命じて人民から税をとることをやめさせたというのです。

でもこれは、天皇の徳をたたえるために、のちにつくられた話だろうといわれています。

しかし、農業を盛んにするためには力をつくし、淀川に茨田堤とよばれる堤防をきずいて、川水のはんらんをふせぎ、河内(大阪)平野を広げたと伝えられています。

また、大陸の文化を進んでとり入れることを心がけた天皇は、中国の東晋や宋の国に、何度も使者をおくったようです。そのころの中国の歴史書に、倭王がみつぎ物を持たせた使者をおくってきたことがしるされ、その倭王のひとりが仁徳天皇ではないかと考えられています。天皇というよびかたは6世紀ごろ生まれたのであり、仁徳天皇のころは、ほんとうは天皇ではなく倭(日本)の国の王だったのです。

堺市の陵は、天皇が亡くなってからではなく、生きているうちから作られたものですが、これは、王だった天皇が、豪族をおさえた支配者の威力を示すためのものでした。しかし、慈悲ぶかいはずの天皇が、自分の墓を作るのにどうしておおくの人民を苦しめたのか、このことは疑問です。


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