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(19)

蘇我入鹿(?−645)

蘇我氏は、大和地方(いまの奈良県)の豪族です。広い土地を所有して勢力をのばし、入鹿の時代には、天皇をあやつり、国の政治を自分たちの思うままに動かすほどになっていました。

入鹿の父の蝦夷も、祖父の馬子も、それぞれ大臣という最高の位について、何代も天皇につかえてきました。そして、馬子や、そのまた父の蘇我稲目などは、日本に仏教をうけ入れることに力をつくし、古代日本の文化の発展に大きな役割を果たしました。

ところが、稲目の時代に、自分の娘と天皇のあいだにふたりの皇子とひとりの皇女が生まれ、やがて、その皇子が用明、崇峻天皇に、皇女が推古天皇になると、天皇の即位に口だしするだけではなく、じゃまな天皇や皇子は殺してしまうようにさえなってしまいました。蘇我氏の血すじをひいたものを天皇にしたほうが、自分たちにつごうがよかったからです。

とくに、豪族の力を弱め、天皇を中心として国の政治をととのえようとした聖徳太子が亡くなると、蝦夷と入鹿のわがままはますますひどくなりました。

生きているあいだに自分たち親子の大きな墓をつくり、天皇の墓と同じように陵と名づけました。また、入鹿は、ほんとうは天皇からさずけられる大臣の位を、父から勝手にゆずりうけてしまいました。さらに、甘檮の岡には、きらびやかな家を建て、これを宮門とよばせたということです。

そのうえ643年には、皇極天皇のつぎの天皇に蘇我氏とつながりのある古人大兄皇子をたてることを考え、じゃまになる聖徳太子の皇子の山背大兄王を、討ちほろぼしてしまいました。

「入鹿は、旻という僧から高い学問を学んでいるのに、どうして人の道からはずれたようなことばかりするのだ」

まわりの豪族たちは、だれもが蘇我氏をにくむようになりました。しかし、権力をおそれて、入鹿を討とうとするものは、だれもいませんでした。天皇でさえ、きびしくしかろうとはしませんでした。

ところが、それから2年ののち、入鹿は、あっけなく身をほろぼしてしまいました。のちに天智天皇となった中大兄皇子に、宮中の皇極天皇の前で、いのちをうばわれてしまったのです。そして、父の蝦夷も宮門に火を放って死にはて、大きな勢力をもった蘇我氏はほろんでしまいました。

入鹿の死によって、中大兄皇子の「大化の改新」が始まり、日本は、天皇中心の統一国家へと歩みだしました。


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