オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(19)

藤原鎌足(614-669)

藤原鎌足は、もとは中臣鎌足といいました。

聖徳太子が40歳だった614年に、大和国(奈良県)で生まれました。中臣氏は先祖から、朝廷の神のまつりをつかさどってきた家がらでした。

鎌足は、幼いころから学問にはげみ、19歳になると、中国の留学からもどってきた僧の旻のもとで、海のむこうの国ぐにのすぐれた文化を学び始めました。そして、政治についても新しい知識を深めていくうちに、日本の政治を正しく進めていくためには、そのころ天皇以上に権力をふりまわしていた蘇我氏をたおさなければならない、と考えるようになりました。

しかし、朝廷につかえてはいても自分の力だけでは、どうにもなりません。

「同じ考えをもつ身分の高い人と力をあわせなければだめだ。皇子の中大兄さまが立ちあがってくださればよいのだが」

鎌足は、かしこくて勇気のある中大兄皇子に近づくことを考えました。

やがて、皇子とことばをかわせる日がきました。

法興寺(飛鳥寺)という寺で、けまりの会が開かれた日のことです。皇子がまりをけったはずみに、くつがぬげてとんでしまいました。このとき、そのかたわらに鎌足がいたのです。

鎌足は、くつをひろうと、自分の名をなのりながら、皇子にさしだしました。すると心が通じあい、それからのちふたりは、いっしょに勉強しながら、蘇我氏を討つことを話しあうようになりました。これは『日本書紀』に書かれている話です。

「朝鮮からの使者がきたときに、蘇我入鹿を宮中で殺そう」

計画はできあがりました。そして、645年、ふだんはでてこないのに、朝鮮からの使者の、みやげものを受けとりにでてきた入鹿を、あっというまに討ちとってしまいました。

蘇我氏はほろび、鎌足は、斉明天皇の皇太子として国の政治を進めるようになった中大兄皇子を助けて、「大化の改新」に力をつくしました。鎌足は皇子よりも12歳上でしたが、ふたりは身分はちがっても、心のなかは兄弟のように結びついていたのかもしれません。

668年に皇子が天智天皇となったつぎの年に、鎌足は、天皇から大職冠という最高の位と藤原という姓をさずけられて、55歳の生涯を終わりました。日本の歴史の中で1000年以上もつづいた藤原氏は、このときに始まったのです。

鎌足はいま、奈良県桜井市の談山神社にまつられています。


もどる
すすむ