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(19)

天武天皇(?−686)

天智天皇が亡くなって、つぎの年の676年6月、朝廷のなかが2つに分かれて、はげしい戦いが始まりました。のちに、壬申の乱とよばれるようになった戦いです。

天智天皇のあとには、天皇の子どもの大友皇子が即位することになりました。ところが、天皇の位をねらっていた、天智天皇の弟の大海人皇子が、おいの大友皇子を討つ兵をあげたのです。

役人も豪族たちも、2つに分かれ、戦いは、およそ1か月つづきました。そして、大海人皇子の軍が近江(滋賀県)の大津京をうちやぶり、大友皇子を、自害させてしまいました。

この大海人皇子が、第40代の天皇の天武天皇です。

「朝廷の力を固めて、しっかりした国家をきずこう」

天武天皇は、力で天皇の位をうばいはしましたが、天皇中心の国家をねがっていた天智天皇の心は、そのまま、ひきつぎました。

国の都を近江から飛鳥(奈良県)ヘ移すと、唐の国の「律令」にならった制度をとり入れて、まず、朝廷の官位の制度を改め、太政大臣、左大臣、右大臣などはおかずに、皇族中心の政治をおこなうようにしました。また、のちには、天皇に心からしたがう豪族には朝臣、宿禰、忌寸などの姓をあたえて、朝廷にそむかせないようにしました。

土地はすべて国のものとするという「大化の改新」の方針をつらぬき、天智天皇が豪族たちに返していた土地を、ふたたび朝廷にとりあげました。そのうえ、豪族たちに命じて国を守る兵の力を強めさせ、天皇の権力で国をおさめる政治を、ますます、おし進めていきました。

日本は天皇を中心にして栄えてきたことを、歴史に残すために、682年ころから、国史をまとめるしごとにもとりかかりました。しかし、この大しごとは、それから4年のちに天皇が亡くなるまでには、完成しませんでした。でも、これがもとになって、やがて奈良時代に『古事記』と『日本書紀』がつくりあげられ、古代日本のさまざまなすがたが明らかにされました。

天武天皇は、国をひとつにまとめるために、さまざまな制度を定めて、まわりの人びとがおそれるほど天皇の権力をふるいました。しかし、そのおかげで、やがて日本は、はなやかな奈良時代へとひらけていきました。天皇の死ご、第3皇子の大津皇子は、天皇の位をねらうむほんを起こした疑いで捕えられ、自殺しました。天武天皇が、大友皇子を自害させたことを思うと、ひにくな運命というより、しかたがありません。


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