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(19)

柿本人麻呂(生没年不明)

柿本人麻呂は『万葉集』最高の歌人です。しかし、額田王と同じように、生まれた年も亡くなった年もわからず、その生涯は『万葉集』の歌からおしはかるよりしかたがありません。

7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて、天武、持統、文武の3人の天皇につかえた人麻呂は、よろこびの歌、悲しみの歌、なぐさめの歌などをつくって天皇や神にささげる、宮廷歌人のひとりだったのだろうと伝えられています。それも、あまり身分の高くない宮廷歌人だったようです。

人麻呂は、天皇を敬う歌や、天皇中心の国家をたたえる歌をおおく作りましたが、とくにすぐれていたのは、皇族の死を悲しんでつくった挽歌でした。686年から696年までのあいだに、大津皇子、草壁皇子、高市皇子という、天武天皇の3人の皇子の死を次つぎにみてきた人麻呂は、人間のいのちのはかなさを、だれよりも深く感じました。そして、宮廷歌人のしごととしてではなく、死をおそれるすなおなひとりの人間として、悲しみがほとばしる挽歌を作ったのです。

人麻呂はさらに、たとえ死者との別れではなくても、めぐりあった人との別れを心から惜しみ、人を恋いしたう相聞歌も、すぐれたものをたくさん作りました。

小竹の葉はみ山もさやに乱れども われは妹おもふ別れ来ぬれば

(山道を歩いて行くと、吹きぬけていく風のなかで、ささの葉が音をたててさわいでいるけれども、わたしは、ただひたすらに、別れてきた妻のことだけを思いつづけている)という、この歌には、旅にでた人麻呂が、家にひとり残してきた妻を思うやさしさにあふれています。

人麻呂は、40歳をすぎたころから役人として山陰や九州へ旅をするようになり、やがて、石見国(島根県)で奈良の都をしのびながら、さみしく世を去ったということです。50歳くらいだったのだろうといわれています。

『万葉集』におさめられている人麻呂の歌は、70首ちかい短歌と18首の長歌ですが、このほかに『人麻呂歌集』の歌として出されているものが数百首あります。とくに長歌に、深い感情のこもった名歌がおおく、また、五七音をくりかえし、さいごを五七七と結び、反歌をそえるという長歌の形は、人麻呂によって完成されました。

人麻呂は、ものを深くみつめて、心の底からわきでた美しいことばで、万葉の世界をきずきあげたのです。


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