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(19)

山上憶良(660−733ころ)

660年に生まれた山上憶良は、『万葉集』に70数首の歌を残している、奈良時代の初めのころの歌人です。

憶良は、宮廷につかえていました。しかし、古くから権力をふるってきた豪族たちにくらべると、山上氏があまり伝統のある家がらではなかったため、役人としてはいつまでも出世しませんでした。

日本の歴史のなかに憶良の名まえが初めてしるされたのは、42歳のときに、天皇が中国の唐の国へ使者を送る遣唐使のひとりにえらばれたときです。でも、まだ官位はなにもなく、学問の深さがみこまれて使節の書記を命じられただけのことでした。

数年で唐から帰国すると、憶良の力はやっとみとめられるようになり、54歳のときに従五位下の官位があたえられ、2年ごには伯耆国(鳥取県)の国守に任じられました。

61歳で、いちど都へもどり、そのころ皇太子だった、のちの聖武天皇に学問を教えました。ところが、66歳になったときに、こんどは筑前国(福岡県)の国守に任じられ、ふたたび都をあとにしました。そして、この筑前で、歌人としてもすぐれていた大宰帥の長官、大伴旅人と親しく交わりをもつようになりました。

憶良が歌をたくさん作るようになったのは、このころからです。年老いて都を遠くはなれた身が、さみしくてしかたがなかったのかもしれません。

出世がおそくて苦しい生活をつづけてきた憶良は、筑前の野を歩いては、土にまみれた農民たちに心を寄せ、貧しい人びとの苦しみや悲しみを歌にしました。また、いつも家ぞくを心から愛しつづけ、わが子を思う親の心を、美しいことばでうたいあげました。

すべもなく苦しくあれば出で走り 去ななと思へど子らに障りぬ

(苦しさのあまり、家を出てどこかへ行ってしまおうかと思うけれど、子どもたちのことを思うと、そんなこともできない)

という、この歌には、憶良のわが子への深い愛情が、やさしくたたみこまれています。

庶民の貧しいくらしに心を寄せた憶良は『貧窮問答の歌』という長歌も残し、72歳でやっと奈良の都へ帰ったのち、ひっそりと死んでしまいました。

憶良は、のちに、人生詩人といわれるようになりました。はなやかなことには何ひとつ目を向けず、人間のよろこびや苦しみだけを、うたいつづけたのです。


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