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(19)

鑑真(688-763)

鑑真は、中国から日本へわたってきた名僧です。

唐の時代の688年に中国東部の揚州で生まれ、14歳のときに僧になると、釈迦が仏につかえるものの心がまえを説いた戒律を学びました。そして50歳をすぎたころには弟子の数が4万人を数えるほどになっていました。

742年、54歳になっていた鑑真のところへ、日本から仏教の勉強のために中国へきていた、栄叡と普照の、ふたりの僧がたずねてきました。天皇のいいつけで、戒律をふかく学んだ中国の僧を日本へむかえたい、というのです。鑑真は弟子たちに、だれか日本へわたってくれるようにたのみました。しかし、海のきけんを恐れた弟子たちは、下をむいたまま、何も答えようとしませんでした。すると、鑑真は、静かに口を開きました。

「仏の教えを広めるのに、自分の命など惜しんではいられない。わたしが、日本へ渡りましょう」

日本へ行くことを決心した鑑真は、師の勇気にはげまされてお供をねがいでた弟子たちといっしょに、つぎの年から船出のじゅんびを始めました。

ところが、いよいよ船をだすと、あるときは鑑真が日本へ行ってしまうのを惜しむ役人にじゃまをされ、あるときは強い風におそわれ、さらにあるときは南の島へ流されて、5回も失敗してしまいました。そして、そのあいだにおおくの弟子を亡くし、鑑真も、船がそうなんしたときに塩水が目に入って、目がまったく見えなくなってしまいました。しかし鑑真は、たとえ目は見えなくても、日本へわたる決心をかえませんでした。

753年、鑑真は、日本からきた遣唐使の船に乗せてもらって、やっと薩摩(鹿児島)ヘ着きました。それはなんと、日本へ渡るじゅんびを始めてから、11年めのことでした。

日本の朝廷にあつくむかえられた鑑真は、東大寺へ入り、聖武天皇をはじめ、およそ400人の日本の僧に、仏のいましめをつたえる授戒をしました。授戒の定めをつくり、日本の仏教のみだれをなおして、758年には朝廷から、僧としては最高の大和上の位をおくられました。しかし、それから5年ののち、戒律を広めるために建て始めた唐招提寺の完成をまたずに、75歳でこの世を去りました。

鑑真が日本ですごしたのは、わずかに10年でしたが、そのあいだに日本の仏教の戒律がうちたてられたばかりでなく、おおくの弟子たちによって、仏教芸術が広められました。


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