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(19)

吉備真備(694ころー775)

717年、阿倍仲麻呂といっしょに遣唐船に乗ったときの吉備真備は、仲麻呂よりも少し年上の23歳くらいでした。

「唐でしっかり学んで日本へ帰れば、朝廷につかえて、高い位にのぼることができる」

高い文化が栄える唐の国へ入った真備は、生まれつきの頭のよさのうえに努力をかさねて、あらゆることを学びました。

人と政治の道を説く儒学、ちつじょ正しい国を作るための法律、それに、兵学、天文学、暦学、音楽にまで手をのばし、唐の役人たちをおどろかせました。そして、18年のちの735年に日本へもどったときには、たくさんの書物、めずらしい武器、日時計、楽器などを持ち帰って朝廷へささげ、こんどは日本の役人たちをおどろかせました。

42歳の真備は、役人を養成する大学寮の大学助にとりたてられ、数年のちには、学問を皇女、皇太子に教える中宮亮、東宮学士へ、さらに50歳をすぎると都を治める右京大夫へ出世しました。

ところが、まもなく朝廷で公卿の藤原仲麻呂が権力をふるうようになると、真備は、筑前守として北九州へ下らせられ、およそ15年間、九州各地の武人たちに兵学を教えながら、都の文化からはなれてすごさねばなりませんでした。

ただ、このあいだに、こんどは遣唐副使として、ふたたび唐へ渡り、20年ちかくもまえ別れた阿部仲麻呂と会えたことは、しあわせでした。でも、日本へもどるとちゅうに大あらしにあい、いっしょに日本の土をふむはずだった仲麻呂とは、またも、はなればなれになってしまいました。

764年、真備は造東大寺長官を命じられて、やっと奈良の都へ帰りました。そして、まもなく反乱を起こした藤原仲麻呂がほろびると、中納言から大納言へ、さらには、天皇を助けて国の政治をおこなう右大臣の位までのぼり、775年に亡くなりました。政治家になった真備は、わがままな権力をふるうようなことはなく、いつも、貧しい農民たちのことを心配したといわれています。

694年ころ、備中国(岡山県)の豪族の子に生まれた真備は、若いころから学問で身をたて、奈良時代の最高の知識人とたたえられるほどになりました。それは、長いあいだ、唐の国でさまざまのことを学ぶことができたからです。このころの日本が、中国に栄えた隋や唐などから教えられたことの大きさは、はかりしれません。


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