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(20)

大伴家持(718?−785)

奈良時代の歌人、大伴家持は、718年ころ、のちに大納言の位にまでのぼり歌人としてもすぐれていた大伴旅人の子として生まれました。祖父も、大納言をつとめた貴族でした。

名門貴族のあととりとしてかわいがられた家持は、10歳のころ、大宰帥に任命された父といっしょに、筑紫(北九州)の大宰府へくだりました。筑紫には、やはり都からくだってきていた山上憶良をはじめ、なん人もの名高い歌人がいました。

家持は、やさしい父、心美しい歌人たちに囲まれ、のどかな筑紫の野を眺めながら、和歌をよむ心を育てていきました。家持には、生涯のうちでこのときが、いちばん幸福だったのかもしれません。

数年ののちに都へもどると、まもなく父を失い、やがて、父のあとをついで朝廷へつかえるようになりました。貴公子の家持は、おおくの女にしたわれ、また自分も燃えるような恋をして、たくさんの恋の歌を作りました。

28歳のころ、越中守に任命されて北陸へくだりました。都を遠くはなれた雪深い越中(富山県)での暮らしは、さみしくてしかたのないものでした。でも、この越中での5年間が、家持を歌人として大きく成長させました。さみしさに打ちかつために、柿本人麻呂や山上憶良らの歌を学びながら、歌日記をつけ、越中の美しい自然と都をしのぶ自分の心を深くみつめた和歌を、よみつづけたのです。

751年、家持は都へもどってきました。ところが、越中で夢にまで見た都は、藤原氏だけが栄えて、大伴氏の一族が出世できる道など、何も残されてはいませんでした。

家持は、大伴氏がとだえていくことをなげき、人間の悲しみや苦しみを歌にして、自分をなぐさめました。

このとき家持が都にとどまったのは、7年たらずでした。そののちの家持は、因幡国(鳥取県)、薩摩国(鹿児島県)、相模国(神奈川県)などの国守をつとめ、最後は、蝦夷をおさめる鎮守府の将軍として東北へおもむき、785年に、その東北の地でさみしく生涯を終えてしまいました。しかも、死ごになって、長岡京をつくる指揮をしていた藤原種継が暗殺された事件にかかわっていたと疑われ、官位を取りあげられてしまいました。

衰えつつある大伴氏のなかで、いくつもの困難に出会った家持は、貴族としてはたいへん不幸でした。でも『万葉集』には、480首ちかくの歌が収められ、歌人として名を残しました。

この『万葉集』は、家持がまとめたものだといわれています。


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