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(20)

坂上田村麻呂(758−811)

8世紀の終わりころまで、東北地方にむかしから住む人びとは蝦夷とよばれ、この蝦夷は、ときどき反乱を起こして、日本を統一しようとする朝廷を困らせていました。

朝廷は、その東北に秋田城や多賀城をきずいて、蝦夷をおさえようとしました。しかし蝦夷は、朝廷へのはむかいを、やめようとはしませんでした。

坂上田村麻呂は、この蝦夷を討った、平安時代の武将です。

「見あげるほどの大きなからだ。鷹のようなするどい目。黄金のひげにおおわれたあご。にらめば猛獣もたちまちたおれ、笑えば赤ん坊もなついた」

このように伝えられている田村麻呂は、中国からの渡来人の子孫でした。

田村麻呂が、桓武天皇の命令で初めて東北へ向かったのは、33歳のときでした。大伴弟麻呂を征東大使にすえ、田村麻呂は副使として、蝦夷との戦いに加わったのです。

「5年まえには、5万の兵を向けながら負けている。こんどこそ、おまえたちの力で蝦夷をしずめてくるのだ」

田村麻呂は、天皇のことばを胸にしまって、兵を進めました。戦いは、それまでにない大勝利でした。しかし、まだ蝦夷を完全にしたがえたわけではありませんでした。

801年、田村麻呂は、ふたたび大軍をひきいて、東北へ進軍しました。こんどは副使ではありません。征東大使の名を改めて新しく任命された征夷大将軍です。

戦いのうまい田村麻呂が攻めてくると知って、蝦夷軍は、北へ北へ逃げました。しかし、田村麻呂はどこまでも追いつづけて敵の大将を捕えました。そして、秋田城と多賀城のほかに胆沢城と志波城を新しくきずいて、蝦夷の反乱に目を光らせるようにしました。

桓武天皇は、こうして蝦夷が静まったのを、どれほどよろこんだかしれません。都へ帰った田村麻呂は、朝廷のすべての軍を指揮する長官から正三位へ進み、さらに、大納言の位にまでのぼりました。

「死んだのちも朝廷を守る、わしが死んだら都が見えるところに、武将のすがたで立ったままうめてくれ」

田村麻呂は、881年に53歳で世を去りましたが、この遺言のとおり、その亡きがらは棺を立ててほうむられたということです。死ご、田村麻呂は戦いの神さまとあがめられ、征夷大将軍のよび名は、そののち武士の最高の位となりました。


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