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(20)

最澄(767−822)

都へつづく国分寺の前の道を、さまざまな人が通ります。家来をつれた人や、きれいに着飾った人にまじって、やせほそったからだに重い荷を背負った貧しい農民がいます。つかれはてて道ばたにうずくまる人もいます。病人もいます。

「人間は、どうしてこんなに不平等なんだろう」

国分寺で修行しながら、その光景を見て、いつも心を痛めている若い僧がいました。この僧が、のちに、比叡山の延暦寺に天台宗をひらいた最澄です。

最澄は、767年に、近江国(滋賀県)で生まれました。父の三津首百枝は、中国から日本へやってきた渡来人の子孫でした。

百枝は、自分の家を寺にかえてしまうほど、仏教を深く信仰していました。そのため、最澄もしぜんに僧への道を進み、11歳のときに髪をそって国分寺へ入ったのです。

最澄は、18歳のときに東大寺で、一人前の僧になりました。ところが、だれもが、大きな寺へ入って早く地位の高い僧になろうとするのに、最澄は比叡山にこもって、修行を始めました。国分寺の前の道で見た光景が忘れられず、そのうえ、自分のためだけに祈ろうとする僧たちのすがたが、疑問でしかたがなかったからです。

それから、およそ10年、最澄は草ぶきの小さな堂で一心に仏の道をさぐり、794年に桓武天皇が都を平安京に移したころには、最澄の名は朝廷でも知られるようになりました。

804年、空海とともに、朝廷がさしむける遣唐船に乗って唐へわたりました。そして天台宗を学び、1年ののちにたくさんの経文をかかえて帰国した最澄は、桓武天皇に願いでて、ふたたび比叡山へ入り、ここに日本の天台宗を開きました。このとき最澄は39歳でした。

「仏教を心から信仰すれば、だれでも平等に仏になれます」

最澄は、この教えをかかげて、天台宗を広め始めました。ところが、最澄に理解が深かった桓武天皇が亡くなると、生きているあいだ仏につかえて、死ご、自分だけが仏になることを考えている僧たちに、反対されるようになりました。

「仏教にたいせつなのは、仏につかえる形式ではない。心だ」
 
最澄は、このように叫んで、古い考えの僧たちと論争をつづけました。しかし論争が終わらないうちに、55歳で亡くなってしまいました。死のまぎわ、弟子たちに「自分の利益のために仏につかえてはならぬ」と遺言したということです。死ご44年すぎた866年に、朝廷から伝教大師の号がおくられました。


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