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(20)

空海(774−835)

弘法大師の名でしたしまれている空海は、774年に、讃岐国(香川県)で生まれました。父は豪族でした。

空海は、少年時代から神童だとさわがれるほどかしこく、14歳のころから都へでて儒教を学んだのち、17歳で、官吏になるための大学へ入りました。

ところが、自分の出世と利益のために学問をすることが、しだいにつまらなくなり、やがて、大学をやめると四国の山やまをめぐって修行をつみ、19歳で僧になってしまいました。儒教、道教、仏教の3つを学びくらべた空海は、すべての人びとが幸福になれる世の中をつくるためには、仏教に生きる道こそ最高だと信じるようになったのです。

僧になっても大きな寺へは行かずに、ひとりで修行と学問をつづけていた空海は、804年に、最澄とともに遣唐船で唐の国へ渡りました。そして「いっしょうけんめいに祈れば、生きたままでも仏になれる」と教える密教を学んで、およそ2年ののちに日本へ帰ってきました。

「仏教は、苦しんでいる人びとのためにあるのです。心から信仰すれば、だれでも救われます」

唐からもどり、仏の道をやさしく説いた空海は、中国の密教を広めるために真言宗を開きました。809年に即位した嵯峨天皇ともまじわりが深くなり、816年には、許しをえて高野山に金剛峰寺を建てて、真言宗の修行場としました。

空海は、唐から帰っておよそ10年のあいだは、天台宗を開いた7歳年上の最澄としたしくしました。しかし、しだいに仏教に対する考えがくい違うようになり、高野山にのぼったころには、きっぱりと別れてしまいました。

仏教をきわめるだけではなく、はば広い学問を身につけ、さらに民衆を深く愛した空海は、全国を歩いて社会のためにも力をつくしました。47歳のときには郷里の讃岐国へ行って、洪水でこわれた満濃池の堤防を、土地の人びとといっしょになって修理しました。また、54歳のときには、京都に綜芸種智院という学校を建てて、身分の高いものにかぎらず、だれにでも学問を学べるようにしました。

空海は、835年に、61歳で亡くなり、死ご86年たった921年に、朝廷から弘法大師の号がおくられました。空海は、文芸の道にもすぐれ、とくに書道は、この時代の三筆のひとりとたたえられたほどでした。「弘法にも筆のあやまり」「弘法筆を選ばず」などのことばが残っているのは、そのためです。


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