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(20)

菅原道真(845−903)

名高い学者の家に生まれた菅原道真は、すでに10歳のころから漢詩を作り、自分も一流の学者になることを心に決めて成長しました。少年時代は、友だちと語る時間も惜しんで、勉強にはげんだということです。18歳で、漢詩や歴史を学ぶ文章生という学生になり、25歳で、役人になるための最高の試験に合格して、役人をつとめながら学問の道を進むようになりました。

32歳のとき、朝廷の人事をつかさどる式部省の次官に任命され、学者としても、最高の文章博士になりました。ところが、あまりにも早い出世を、おおくの学者たちにねたまれ、つらい思いをしなければなりませんでした。また、朝廷で勢力をのばしてきた藤原氏の権力におされて、政治家としても、いろいろ苦労がたえませんでした。

866年、道真は讃岐守に任じられて四国へわたりました。都で育った道真には、地方の生活はさみしくてしかたがありません。詩や歌を作って心をなぐさめながら、毎日をすごしました。

4年ののち京都へもどってくると、まもなく、わがままな藤原氏をにくんでいた宇多天皇から、大臣の位につぐ参議にとりたてられました。道真が藤原氏に負けない政治の力をふるってくれることを、期待されたのです。894年には、それまで260年もつづいてきた遣唐使が道真の意見で中止されるほど、道真は天皇に深く信用されていました。

899年、54歳の道真は、2年まえに天皇の位を醍醐天皇にゆずっていた宇多上皇の力で、右大臣の位にまでのぼりつめました。学者が大臣になったのは、奈良時代の貴族だった吉備真備いらい、133年ぶりのことでした。

しかし、道真の運命は、右大臣になったことで、かえってかたむいてしまいました。

道真をにくんでいたの左大臣の藤原時平が、醍醐天皇に「道真は自分の血すじのものを天皇の位につけようとしています」と、告げたからです。道真が、そんなことを考えていたかどうか、事実はわかりません。でも、天皇に疑われた道真は、右大臣から地方の役人に位をさげられ、九州の大宰府へ行くことを命じられてしまいました。罪人が島流しにされたのと同じです。

大宰府での道真は、都をしのんで悲しい歌をよむうちに、からだも弱り、2年ごに58歳の生涯を閉じてしまいました。

朝廷は、のちに道真の罪をゆるし、京都の北野に天満宮を建てて、その霊をなぐさめました。これが、学問の神として信仰されるようになった、天満宮のおこりです。


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