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(20)

紀貫之(872?−945)

天皇、または天皇の位をゆずった上皇、あるいは位をゆずったのちに出家した法皇たちの命令で作られた和歌集が、平安時代から室町時代にいたるまでのあいだに21あります。これが勅撰和歌集とよばれるものです。

紀貫之は、その勅撰和歌集のうち、いちばん初めの『古今和歌集』を中心になって作った、平安時代初めの歌人です。

紀氏は、古くから名の知れた武人の家がらでした。しかし貫之の父の時代には、勢いをのばし始めた藤原氏の力におされて、すっかり落ちぶれていました。そこで貫之は、若いころから、役人として出世することはあきらめて、歌人になるための勉強にはげみました。

20歳のころには、歌人貫之の名は朝廷でも知られるようになりました。やがて醍醐天皇から『古今和歌集』の歌を選ぶ歌人のひとりに任命されたときは、まだ30歳をいくつかすぎたばかりでした。

貫之は、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑と力を合わせて、およそ8年のちに、その時代までの無数の和歌のなかから120数人の歌人がよんだ約1100首の歌を選び、全部で20巻の『古今和歌集』を完成しました。また、古い歌のなかから、すぐれたものを選びだしただけではなく、和歌集の序文をしるし、和歌のおこりや歴史、それに歌の解説を書き残して、のちの歌論の基礎をつくりました。また、貫之の歌は、全体の約1割にあたる102首がおさめられました。

この和歌集を作りあげた貫之は、宮中の第1の歌人となりました。ところが、歌人としての名は高まっても役人の地位はあいかわらず低く、60歳ころから5年ちかくのあいだは四国の土佐国(高知県)へ下って、地方の役人暮らしのさみしさにたえなければなりませんでした。

しかし、貫之は任務をぶじに果たしました。そして、都へ帰ってくると、もうひとつ、すぐれたことをなしとげました。土佐を船出して都へ着くまでの50数日間の旅を『土佐日記』としてまとめたのです。

『土佐日記』は、日本で初めてかな書きで書かれた日記でした。そのころ、男の書く文章はみな漢字漢文で、ひらがなは女の人しか使っていませんでした。「男の書く日記というものを書いてみた」と女の立場で書かれた形を取り、59首の和歌をもりこんだこの作品は、歴史に残るすぐれた日記文学のひとつに数えられています。


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