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(20)

藤原頼道(992−1074)

藤原頼道は、藤原氏の勢いを最もさかんにした道長の長男として生まれ、父の力のおかげで、20歳前後に権中納言から権大納言へ、さらに25歳のときには内大臣へと、おどろくほどの早さで出世しました。そして、内大臣になった同じ年に、父から摂政の位をゆずり受け、2年のちには、父もならなかった関白の地位につきました。

頼道は、こうして27歳の若さで、天皇を助けながら国のすべての政治をおこなう権力をにぎり、そののちおよそ50年のあいだ摂政と関白の地位をひとりじめして、藤原氏の権威を守りつづけるようになりました。

後一条、後朱雀、後冷泉の3人の天皇につかえた頼道は、国の政治を思いどおりに進めながら、いっぽうでは、荘園とよばれる自分の土地からばく大な収入をえて、ぜいたくをきわめつくした貴族生活を楽しみました。

しかし、国の政治を思いどおりにとはいっても、国を改めるような新しい政治には、ほとんどとりくみませんでした。

さいわい、頼道が関白をつとめた時代には、安房国(千葉県)で国の役所の国府が関東武士におそわれた「平忠常の乱」を除けば、朝廷をゆるがすほどの大事件も起こりませんでした。

もともと性格がおとなしかった頼道は、父の道長が残してくれた大きな権力を守りぬくことだけで、せいいっぱいだったのだろうといわれています。

そのうえ、頼道は、自分のむすめを天皇のきさきにして皇子を産ませ、藤原氏と天皇家との強いむすびつきをもたなければならないという、藤原一族のための役割をになっていました。

ところが、天皇のもとへ、むすめをとつがせても、わざわざ養女を育ててとつがせても、生まれてくるのは女の子ばかりでした。そして、ついには、藤原氏と血のつながりのうすい後三条天皇が即位して、藤原氏の運命もかたむき始めるようになってしまいました。

60歳になった頼道は、父からゆずり受けていた宇治の別荘を平等院と改めて鳳凰堂を建て、阿弥陀如来像をまつって自分の心をなぐさめました。鳳凰堂は、これこそ極楽浄土だといわれるほど、みごとなものでした。しかし、頼道は、平等院に遊んでも、鳳凰堂で手を合わせても気が晴れないまま、やがて関白をやめると出家して、82歳で世を去りました。

藤原氏の勢いはこうしておとろえていきましたが、平等院には、藤原氏が栄えた時代の美術がたくさん残されました。


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