オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(20)

源義家(1039−1106)

源義家が、東北へ兵をだしたときのことです。兵をしたがえて馬を進めていた義家は、さっと矢をつがえて、弓をきりきりっとしぼりました。草原の上を並んで飛んでいたガンの群れが、とつぜん列をみだすのを見て、敵が草むらに待ちぶせているのをさとったからです。大将義家のようすに、けらいたちもいっせいに弓をひき、またたくまに敵を追いちらしました。

これは、義家が兵法にすぐれていたことを伝える話です。

源頼義の長男として生まれ、元服して八幡太郎と名のった義家は、1051年に、東北の豪族安倍頼良と貞任、宗任の親子が朝廷にそむいて「前九年の役」がおこると、わずか12歳で早くも戦にでました。

戦いは12年にもおよび、苦戦がつづきました。父の頼義とともに敵の大軍に囲まれたこともありました。しかし、義家はどんなときもひるまず、とくいの弓で敵をたおし、出羽国(山形・秋田県)の清原氏の力ぞえをえて、1062年に安倍氏をほろぼしてしまいました。

義家は、この戦いのてがらで出羽守に任じられ、1075年に父が死ぬと源氏の頭となって、朝廷につかえました。

1083年、義家はふたたび東北へ兵をむけました。安倍氏のあと勢力をのばしていた清原氏が、一族どうしで争いをおこし、義家は、これをしずめるために立ちあがったのです。 

あるときは深い雪に道をとざされ、あるときは食べものがなくなり「前九年の役」のときよりも、もっと苦しい戦いがつづきました。義家は、剛臆の座を考え、その日の戦いで勇気をふるったものは剛の座に、臆病だったものは臆の座にすわらせて、兵をふるいたたせました。でも、寒さにこごえ死にそうな兵がいれば、ひとりひとり声をかけて、いたわってやったということでです。戦いは4年ごに、義家の勝利で終わりました。

義家は、けらいのことをいつも思いやりました。のちに「後三年の役」とよばれるようになった、この戦いのあと、朝廷は「義家は、ほんとうは清原氏の争いをしずめるよりも、自分の勢力をのばしたかったのだ」と考えて、義家に、なんの恩賞もあたえませんでした。すると義家は、自分の財産をなげだして、けらいたちにほうびを分けあたえたということです。

義家のやさしさに、けらいたちはなみだを流して感激しました。そのうえ、義家をしたう武士たちが、ますますふえ、源氏の力は関東一を誇るようになりました。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、義家が亡くなって、およそ80年ごのことです。


もどる
すすむ