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(21)

法然(1133−1212)

「いっしょうけんめいに、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも、来世で極楽浄土に生まれかわることができる」

源頼朝が鎌倉に幕府を開く少しまえに、このように説く浄土宗がおこりました。法然は、この浄土宗の開祖です。法然は、1133年に、美作国(岡山県)で生まれました。父は豪族でした。ところが、法然が8歳のときに、同じ土地の領主の一族におそわれて殺されてしまいました。

このとき法然は、母ともはなればなれになったまま、家の先祖の霊をまつる菩提寺に身をかくしました。そして、12歳のときに出家して比叡山へのぼり、最澄が建てた天台宗延暦寺の僧になりました。

父は、死のまぎわに「親の仇を討ってはならぬ。うらみは忘れるのだ」といい残していました。法然は、父のこの遺言を守って、髪をそる決心をしたのです。

法然は、源信が地獄と極楽を教えた『往生要集』を学びながら、ほんとうの仏の道をさぐりました。ところが、比叡山の僧たちは、学問や修行よりも自分たちの利益のための争いに明け暮れ、法然の心をまよわすばかりでした。

「シャカの死ご2000年ほどで仏教がおとろえ社会が乱れると伝えられてきたが、ほんとうに、その時代がやってきたのかもしれない。しかし、このままではいけない」

法然は、17歳で延暦寺をはなれて京都の黒谷に住み、すべての仏教の教えをまとめた『一切経』を何度も読み返して、修行にはげみました。しかし、唐の善導という僧が書いた『観経疏』を読んでさとりを開くまでには、25年もの長い歳月がかかりました。

42歳になった法然は、京都の東山に小さな家を建てて住み、町へでて、浄土宗を説き始めました。

「念仏を唱えさえすればよいのなら、こんなありがたいことはない」「法然の教えは、ほろびそうになっている仏教を、きっと救ってくれるにちがいない」

浄土宗は広まり、法然の名は国じゅうに知られるようになりました。ところが74歳のときに、法然は四国へ流されてしまいました。念仏に反対する僧たちが、浄土宗の念仏の禁止を朝廷に訴えたからです。でも、やがて罪は許され、ふたたび京都へもどってくると、おおくの弟子に囲まれて79歳の生涯を終えました。弟子の親鸞は、法然の教えをさらに進めて、のちに浄土真宗を開きました。


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