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(21)

北条時政(1138−1215)

北条氏は、桓武天皇の流れをくむといわれた豪族でした。時政は、12世紀に、その北条氏の繁栄の基礎をきずいた武将です。

1159年の平治の乱で源義朝が平清盛にやぶれ、その翌年に義朝の子の頼朝が伊豆へ流されてきたとき、時政は、これをかんしする役につきました。

ところが、それから約20年の歳月が流れて40歳をすぎた時政は、平氏を討つために立ちあがった頼朝に味方をして、自分も兵をだしました。むすめの政子が、いつのまにか、ふかく愛するようになった頼朝と、むすばれていたからです。

1185年、3月に平氏が壇ノ浦でほろび、10月に、頼朝と仲が悪くなった義経が兵をあげようとすると、時政は頼朝の代官として京都へ入りました。義経に力をかそうとした朝廷と公家を頼朝になびかせるのが、時政の任務でした。義経は兵を集めるのに失敗して京都を逃げだしました。

時政は、頼朝が開こうとする鎌倉幕府の目を全国に光らせるために、地方に守護、地頭の武士を新しくおくことに後白河法皇を説きふせて、鎌倉へ帰りました。

やがて鎌倉幕府が開かれ、時政は、頼朝の義父として大きな権力を自分のものにしました。しかし、61歳になったとき、時政の地位は危なくなりました。頼朝が死に、孫の頼家が将軍になると、頼家の妻の父に当たる比企能員が、それまでの時政と同じように将軍の義父として権力をふるいはじめたのです。

頼朝が死んだあと、幕府の実権をにぎってしまうことを、ひそかに考えていた時政は、心がおだやかではありません。そこで、1203年、時政はついに比企一族をことごとく討ちほろぼしてしまいました。そのつぎの年には、将軍の地位をしりぞかせて伊豆の修善寺にとじこめていた頼家までも、家来に命じて殺してしまいました。このとき頼家は、まだ22歳でした。

1203年、時政は、頼家の弟で、わずか11歳になったばかりの実朝を、鎌倉幕府の第3代将軍にたてました。

しかし、時政には実朝を将軍としてもりたてる心など初めからなく、政所別当として自由に政治をあやつり、幕府の実権をにぎってしまいました。これが北条氏の執権政治の始まりです。

時政は、そのご、こんどは自分の娘のむこを次の将軍にたてることを考えて、実朝を殺してしまうたくらみをしました。ところが、この悪だくみがばれて、逆に自分が鎌倉を追われ、出家したのち77歳で、伊豆でさみしく死んでいきました。


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