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(21)

栄西と(1141−1215)道元(1200−1253)

座禅によってさとりを開こうとする、仏教のひとつの流れを、禅宗といいます。栄西と道元は、この禅宗を日本でおこした、鎌倉時代の僧です。

1141年に備中国(岡山県)で生まれた栄西は、14歳のころ比叡山にのぼって、最澄が伝えた天台宗の教えを学び始めました。

しかし、仏教の本をどんなに読んでも満足できませんでした。そのうえ、日本の仏教全体にさえ疑問をもつようになり、27歳のときには半年、46歳のときには4年、2度も宋へわたって天台山へのぼり、臨済宗(禅宗のひとつの派)を学びました。

宋から帰国した栄西は、まず九州へくだって禅の教えを広めました。ところが、比叡山の僧が朝廷を味方にひき入れて、禅宗が広まるのを妨害するようになりました。

栄西は『興禅護国論』を書き、禅こそ国を守る宗教だと説いて反論しました。そして、鎌倉へ行って幕府に臨済宗の教えを伝え、鎌倉に寿福寺を建てたのち、京都へのりだしました。幕府が禅宗の教えに心を動かし、栄西の活動をうしろから応援するようになったのです。

そののちの栄西は、京都六波羅に、僧が修行する道場として建仁寺を建て、若い僧の教育と、臨済宗を広めることに力をつくして、1215年に寿福寺で亡くなりました。74歳でした。

道元は、栄西が鎌倉に寿福寺を建てた年に生まれました。父は貴族でした。しかし、その父には2歳のときに、そして母にも7歳のときに死に別れ、13歳で比叡山へのぼりました。

天台宗を学んだ道元は、初め、弘法大師のような位の高い僧になることを夢見たこともありました。でも、すぐに、僧は自分の出世などを望んではならないことをさとり、建仁寺に栄西をたずねて教えを受けました。ところが、1年もしないうちに栄西に死なれ、師とあおぐ人を失ってしまいました。

1223年、23歳の道元は宋へわたりました。そして、5年ちかく曹洞宗(禅宗のひとつの派)を学んで帰ってくると、数年は京都の深草の寺に住み、43歳のときに越前国(福井県)に永平寺を開いて修行に励みながら、禅の教えを広めました。

そののち、幕府の執権北条時頼にまねかれて鎌倉へ行ったとき、時頼から、寺を建ててやるから鎌倉にとどまるようにすすめられました。しかし、道元はことわりました。たとえ貧しくても、静かなところで修行することだけを望んでいたからです。

道元は、仏教のことばを集めた『正法眼蔵』を書き残し、はげしい修行にたおれて、53歳で病死しました。


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