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(21)

運慶(?−1223)

仏像をつくる人の事を仏師といいます。運慶は、鎌倉時代初めのころの仏師です。生まれた年はわかりません。父の康慶も、力強い仏像をつくって名を高めた、すぐれた仏師でした。

運慶は、幼いころから、父の仕事を見て彫刻に心をひかれ、父から仏教の話を聞いて仏をうやまう心を深め、さらに、寺院をあるいて仏教美術の世界にひたりながら、成長しました。

25歳をすぎたころ、1年がかりで奈良円成寺の『大日如来像』を完成して、仏師の道をあゆみはじめました。ところが、それからまもなく、運慶の心を暗い谷底へつきおとす事件がおこりました。1180年に、源氏と平氏の争いが始まり、平重衡が放った火で東大寺、興福寺が焼けおちて、数えきれないほどの仏像が灰になってしまったのです。運慶は、全部で8巻の法華経を書き写して、悲しみと怒りをしずめました。そして、燃えてしまったすばらしい仏像を思い返しながら、心にちかいました。

「戦乱で失った仏像以上のものを、自分の力でつくろう」

1185年に平氏が壇ノ浦の戦いでほろび、やがて、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、30歳をこえた運慶は、すさまじいいきおいでのみをふるいはじめました。

幕府が生まれて武士中心の社会になり、人びとが求めたものは、美しくやさしい仏像よりも、生き生きした男性的な仏像でした。さいわい、運慶が父からうけついでめざしていたのも、血がかよっているような、たくましい仏像です。

運慶は、幕府の政治をつかさどる北条時政の依頼をうけて、伊豆の願成就院の『不動明王』『毘沙門天』などの像をつくり、それまでの藤原時代にはなかった、新しい仏像彫刻をきずきあげました。つねに、いまにも動きだすような仏像をつくろうとした運慶は、衣のひだひとつ彫るのにも、いく日も全力をうちこんだということです。

1203年には、兄弟弟子の快慶とのみをきそって、東大寺南大門の『仁王像』を彫りました。仏の道にそむく者には、ほんとうにおそいかかってきそうな、高さ8メートルの巨像です。また、1208年からは、10数人の仏師をともなって興福寺へ入り、およそ3年のあいだに、日本の仏像彫刻の最高傑作とたたえられるほどの作品を、次つぎに完成させました。しかし、いまは、そのおおくが残ってはいません。

運慶は、父に学び、父をのりこえました。でも、のちに、法印という僧としての最高の位をさずけられても、父を師としてあがめつづけたということです。


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