オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(21)

藤原定家(1162−1241)

日本人に、かるた遊びで最も広くしたしまれている古い歌集に『小倉百人一首』があります。7世紀から13世紀にかけての歌人100人の和歌を、1首ずつ集めたものです。

藤原定家(ていかともよぶ)は、この百人一首を選んだといわれる、鎌倉時代初めの歌人です。そのころの最高の歌人藤原俊成を父に、1162年に生まれ、幼いときから、歌人になるためのきびしい教育を受けて成長しました。

早くも16歳のときに、貴族たちが和歌をきそう歌合の会にまねかれるほどになっていた定家は、24歳ころ関白の九条家にめしかかえられました。そして、日本の古い文学や中国の詩なども学びながら、一流歌人の慈円や藤原良経らとまじわっておおくの歌をよみ、またたくまに名の知れた歌人のひとりになりました。

ところが、1196年に九条家が関白の座を追われたため、34歳の定家も高い官位へのぼる希望を絶たれ、歌もよめないほどの暗い生活がつづくようになってしまいました。宮廷につかえる歌人は、どんなに歌人としてすぐれていても、官位が低くては豊かな生活はのぞめなかったのです。

およそ5年ののち、定家にふたたび明るい希望をあたえたのは、定家を『新古今和歌集』の歌を選ぶ歌人のひとりに加えた、後鳥羽上皇でした。

「上皇は、このうえなく和歌を愛しておられる。その上皇といっしょに新しい歌集が作れるとは、なんと幸せなことだろう」

定家は、天皇の位を土御門天皇にゆずったばかりの20歳の上皇によくつかえ、それから4年、その時代の和歌のなかから約1900首の歌をえらぶしごとに励みました。

歌をえらぶあいだ、定家は意見のくいちがいで、上皇となんどもしょうとつしました。上皇をどんなに尊敬していても、歌人として自信をもっていた定家は、歌のことでは自分の考えをまげなかったからです。

そののちの定家は、自分の歌も4000首ちかくおさめた自選歌集を作りました。いろいろな歌集の解説書も書きました。また『土佐日記』『源氏物語』『伊勢物語』『更級日記』などを書き写して、日本の古い文学をのちの世に正しく伝えるしごとにも励み、1241年に79歳の生涯を終えました。

『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』とともに、日本の3大歌集のひとつに数えられています。『小倉百人一首』は、定家が京都の小倉山の山荘で、びょうぶにかきつらねたものだといわれています。


もどる
すすむ