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(21)

北条泰時(1183−1242)

泰時が、まだ9歳だったときのこと。さんぽをしていた泰時の前を、ひとりの武士が馬にまたがったまま通り過ぎました。すると、このことを知った将軍頼朝は、その武士を呼びつけ、馬をおりて泰時に頭をさげなかったことを、強く叱りました。ところが泰時は、いっしょうけんめいに武士をかばいました。これを見て感心したのは頼朝です。「まだ幼いのに、やさしい心をもったやつだ」。頼朝は泰時をほめ、ほうびに自分の刀をあたえました。

これは、泰時が幼いときからかしこく、源頼朝にたいへんかわいがられたことを伝える話です。

北条義時の長男として生まれた泰時は、北条氏の力が日の出の勢いでのびていくなかで育ちました。父義時が、祖父時政のあとをついで幕府の執権になったときは、泰時は22歳でした。

1213年、幕府にそむいた和田義盛を討って、武将泰時の名をあげ、35歳で、幕府の武士をすべてとりしまる侍所別当の位につきました。

1221年に起こった承久の乱で、さらに名を高めました。

武士の力が国の政治をあやつるほどにつよくなったことをなげいた朝廷が、鎌倉幕府をたおすために兵を起こすと、泰時は、幕府軍の総大将として朝廷軍を打ちやぶりながら東海道をおし進み、またたくまに京都を占領してしまったのです。そして、六波羅に京都を取りしまる探題をおき、朝廷も、朝廷に味方をしていた武士も、おさえてしまいました。

泰時は、急死した父のあとをついで、41歳のときに鎌倉幕府の3代目の執権職につきました。執権は、強い権力をもつ幕府最高職です。しかし、社会にむかって権力をふるうまえに、連署という、執権を助ける役職を新しくつくり、さらに、裁判や役人の任命などを会議で決めるための評定衆の制度ももうけ、幕府の政治をしっかりと進めていくための体制を固めました。

また、評定衆たちに命じて、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた『御成敗式目』(貞永式目)をつくり、武士たちの精神を正させました。この『御成敗式目』は、日本で初めての武士の法律でしたが、そのご長く、武家社会のことをとり決めるときの手本となりました。

泰時は、18年間の執権職のあいだに、そのご第16代までつづいた、北条氏の執権政治のきそをきずき、1242年に59歳で亡くなりました。人間の道理を重んじた泰時は、朝廷を攻めた罪を、そのごの正しい政治でつぐなおうとしたのだといわれています。


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