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(22)

源実朝(1192−1219)

1219年(承久1年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮で、源実朝が右大臣になったことを祝う拝賀式がおこなわれました。そして、式が終わり、実朝が拝殿から参道までに石段を降りてきたときのことです。かたわらのイチョウの大木のかげからとびだした一人の若者が、実朝に切りかかりました。

実朝は刀をぬくひまもありません。おりから舞い落ちていた粉雪が、一瞬のうちに赤い血に染まり、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は、こうして27歳の短い生涯を閉じてしまいまいた。

実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を父に、伊豆の豪族北条時政の娘だった政子を母に、その次男として生まれました。

実朝が8歳のとき父が亡くなり、兄の頼家が第2代の将軍になりました。ところが頼家は、時政の力で、およそ1年でしりぞけられ、わずか11歳の実朝が、将軍の位につくことになりました。これは、年若い実朝を将軍にして、政治の実権を自分のものにしようとする、時政のたくらみによるものでした。

実朝は、名前だけの将軍になったのです。そのうえ北条氏によって、頼家をはじめ源氏の有力な武将たちが、次つぎにたおされていくと、将軍の位は、ますます飾りものにすぎなくなってしまいました。

少年時代を、一族のみにくい権力争いにまきこまれてすごすうちに、実朝は、和歌、音楽、けまりなど、京の都のみやびやかな文化に、あこがれるようになりました。きっと、心のやすまるものを求めたのでしょう。まもなく京の公家の娘と結婚すると、ますます、都の文化に心をひかれていきました。

実朝は武士です。武士を従える将軍です。しかし、やがて将軍として生きていく道はすてて、朝廷から官位を上げてもらうことだけを、生きがいとするようになりました。そして、右大臣の位を手に入れたときに、死の悲劇がおとずれたのです。

実朝を殺した若者は、実朝の兄頼家の子の公暁でした。

「実朝がいなくなれば、つぎの将軍はあなたですよ」

公暁は、時政の子の義時に、このようにそそのかされて、おじの実朝を殺してしまったといわれています。ところが公暁も、その日のうちに、将軍を殺した大罪人として首をはねられ、一夜のうちに、源氏の血すじは絶えてしまいました。

実朝は、将軍としては無力でしたが、14歳のころから、そのころの最高の歌人藤原定家を師とあおいで、さわやかで力強い和歌をおおくよみました。鎌倉右大臣家集ともよばれる『金槐和歌集』には、約700種の、実朝の歌がおさめられています。


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