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(22)

北条時頼(1227−1263)

大雪の夜、上野国佐野(群馬県高崎市)あたりで、ひとりの僧が、1軒のあばらやに一夜の宿をたのみました。すると家の主人は、貧しくてもてなしのできないのをわびながら「せめて、からだでもあたためてください」と、たいせつにしていた鉢植えの梅や松や杉の木を、いろりでたいてくれました。その主人は、いまはおちぶれていても、佐野源左衛門と名のる武士でした。

やがて、春になって鎌倉幕府が兵をあげようとしたときのこと、鎌倉へかけつけた武士のなかに源左衛門がいるではありませんか。また、源左衛門がふと見ると、幕府をおさめる執権のそばに、いつかの僧がいるではありませんか。この僧こそ、まえの執権北条時頼だったのです。時頼は、源左衛門を呼んで鉢の木をたいてくれた礼をいい、さらに、貧しくても鎌倉へかけつけてくれた武士の心をほめて、広い土地をあたえました。

これは「鉢の木」と題する謡曲に語り伝えられている話です。事実かどうかはわかりません。しかし、時頼が、人びとの暮らしぶりを知るために身分をかくして町や村をたずねるほど、細かい心くばりをする政治家であったことを、よく伝えています。

3歳のときに父を失い、祖父の泰時にきびしく育てられた北条時頼は、病気の兄にかわって19歳で、鎌倉幕府の執権職を受けつぎました。このときは、もう、祖父も亡くなっていました。

執権になった時頼は、まず、執権職をひそかにねらっていた名越光時や、幕府のなかで大きな力をもつようになってきた三浦氏を、2年のうちに討ち、北条氏の権力をますます強いものにしました。そのうえ、1252年には、鎌倉幕府の第5代将軍源頼嗣をしりぞかせて、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を征夷大将軍として鎌倉へ迎え、幕府を安泰にしました。

すぐれた政治の才能をもっていた時頼は、こうしてまたたくまに、北条氏の独占体制を固めました。ところが、執権職の位にあったのは、宗尊親王を迎えてから、わずか5年でした。29歳で執権職を北条長時にゆずり、出家してしまったのです。

しかし、出家したのちも、長時を助けて、人びとから信頼される幕府をつくるために、力をつくしました。自分からすすんで倹約しながら貧しい農民たちを救ったといわれ、「鉢の木」のような話が生まれたのも、時頼が、武士だけではなく町人や農民からもしたわれたからです。

時頼は36歳で病死しました。するとそのとき、おおくの武士が、時頼の死を悲しんで出家したと伝えられています。

鎌倉の建長寺は、禅宗を信仰していた時頼が建てたものです。


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