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(22)

吉田兼好(1283?−1352?)

木のぼりの名人が、男を高い木にのぼらせて枝を切らせているときのこと。名人は、男が高い枝の危険な所で仕事をしているときは、なにもいわないで、男が下のほうまでおりてきたときになって「用心しておりろ」と言いました。すると、これを見ていた人が「これくらいなら、とびおりることだってできるじゃないか。どうして注意するのだ」と、たずねました。

名人は答えました。

「枝が折れそうであぶないあいだは、気をつけます。だから、なにも注意する必要はありません。ところが、あやまちは、もうわけはないという気になったときに、おこるものです」

これは『徒然草』に記されている話です。人間のゆだんが失敗につながることを、おもしろく、いましめています。

「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて……」

(何もすることがないのにまかせて、1日じゅう、すずりに向かって)という書きだしにはじまる『徒然草』の作者吉田兼好は、鎌倉時代の末期から、南北朝の争乱、室町幕府の設立へと、歴史の流れが激しく変わる不安な時代に生きた随筆家です。

兼好は、京都の吉田神社の、神官の分家に生まれ、本名を卜部兼好といいました。若いころは、後二条天皇に仕え、御所を警備する左兵衛佐という位にまでのぼりました。

ところが、後二条天皇が亡くなると朝廷をしりぞき、30歳のころ、出家して僧になってしまいました。朝廷と鎌倉幕府との対立や、朝廷の中での持明院統と大覚寺統との政権争いなどがわずらわしくなり、心のよりどころを仏教にもとめたのだろう、といわれています。このとき名を音読みにして法名を兼好としました。そのご、本家の吉田神社の神道がさかんになると、吉田兼好とよばれるようになったということです。

出家してからの兼好は、京都で修行をつみ、また、関東などへ足をむけて自由な旅を楽しみ、そのかたわら、歌人二条為世のもとへ入門して和歌を学びました。そして、40歳をすぎたころには、二条派の和歌四天王の一人にあげられるほどになっていました。ものごとを心で見つめ、その感動を歌にしたのです。

晩年は、京都の仁和寺の近くに住み、深い教養を身につけた歌人、随筆家、古典学者として、人びとにしたわれました。しかし、なんといっても、兼好の名を歴史に残したのは、随筆文学の傑作とたたえられる『徒然草』です。仏教、学問、芸術、生活などをとおして、人間の生き方がさりげなく語られ、いまも、おおくの人びとに読みつがれています。


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