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(22)

楠木正成(?−1336)

『太平記』とよばれる軍記物語があります。鎌倉時代の終わりころから南北朝時代までのあらそいをえがいた、歴史読み物です。

この『太平記』によれば、河内国(大阪府)の武将楠木正成が、日本の歴史のなかに登場するのは、幕府をたおそうとした後醍醐天皇に、呼びよせられてからのことです。それより以前の正成については、河内の土豪であったらしいということしか、わかっていません。

正成が呼びよせられたとき、後醍醐天皇は、幕府をたおす計画が幕府にもれ、身を守るために笠置山(京都府)へのがれていました。しかし、天皇はまもなく幕府軍に捕えられました。

天皇に忠誠をちかった正成は、天皇が捕えられても、河内の赤坂城にたてこもって、幕府の大軍と戦いました。そして、場内に食糧がなくなると城に火を放って落ちのびました。

「天皇が帰ってこられるまで戦いぬくのが、わしのつとめだ」

生きながらえて、最後まで天皇に仕える決心をしたのです。 
 
その後、兵をたてなおした正成は、赤坂城をうばい返し、さらに、赤坂城の奥の山に千早城をきずきました。

1332年、幕府の数万の大軍が、千早城へ攻めてきました。千早城でむかえうったのは1000人たらずの兵です。正成は、城の上から大きい石を落とし、わら人形で敵をおどし、攻めてくる敵に火や油をそそぎかけ、知恵をはたらかせて幕府軍を城の下にくぎづけにしました。このときの正成のめざましい活躍は、幕府軍の弱さをさらけださせ、各地の武士を、討幕にむかわせるきっかけになったと、伝えられています。

1334年、ついに幕府がたおれて天皇による「建武新政」が始まり、倒幕に力をつくした正成は、河内国を支配する国主に任じられました。ところが、足利尊氏が謀反をおこしました。

正成は、天皇を守って戦い、尊氏の軍を京都から追いだしました。しかし、数か月ご、九州で軍勢をたてなおした尊氏が、ふたたび京都へ軍をすすめてきました。おおくの武士を味方につけた大軍です。正成は、天皇に尊氏と仲直りすることをすすめました。また、戦うなら、尊氏軍を京都におびきよせて討つことを進言しました。しかし、どれも、反対されてしまいました。

1336年5月、正成は、死を覚悟して尊氏軍と湊川(兵庫県)で戦い、はなばなしく討ち死にしました。桜井(大阪府)での、子の正行との涙の別れは、このときの伝説です。

天皇に河内から呼びよせられて、討ち死にまでの5年、正成は、天皇につくすことだけを考えて、生きぬきました。


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