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(22)

新田義貞(1301−1338)

新田義貞は、鎌倉時代の終わりころから南北朝時代にかけて活躍した武将です。上野国(群馬県)新田で、源氏の一族として生まれました。同じころ、となりの下野国(栃木県)足利では、やはり源氏一族の足利高氏(尊氏)が生まれています。

新田氏も足利氏も、鎌倉幕府に仕える有力な御家人でした。しかし、足利氏が幕府の政治をつかさどる北条氏と親戚関係をむすんで、重要な職についていたのにくらべて、新田氏は幕府に冷たくあつかわれ、北条氏に不満をいだいていました。

1333年、義貞は、後醍醐天皇に仕えて幕府にそむく楠木正成を討ちに、幕府の命で河内国(大阪府)の千早城に向かいました。

ところが、戦のじょうずな正成の守りがかたいのを見た義貞は、病気といつわって、戦いの中途で新田へ帰ってしまいました。北条氏の命令どおりに動くよりも、世の中の動きをよく見つめて、自分にとくな行動をとることにしたのです。

「敵は、北条だ。幕府をたおしてしまえ」

同じ年の5月、義貞は兵をあげました。高氏が幕府に謀反をおこして天皇に味方するようになり、義貞にも「幕府を討て」という、天皇の命がとどいたのだろうといわれています。
 
義貞の軍は、鎌倉へ進むうちに味方がふえ、みるみる大軍になりました。しかし、鎌倉は三方が山にかこまれ、かんたんには攻め込めません。義貞は海岸ぞいに稲村ヶ崎から七里ヶ浜へ進み、海がわから、一気に攻めかかることにしました。このとき、海に刀を投げ入れて神に潮がひくのをねがい、味方の兵を勇気づけたと伝えられています。

義貞は、鎌倉に攻め入って北条氏の一族を討ち、幕府をたおしました。そして後醍醐天皇の新しい政治が始まると、その手がらによって、京都を守る武者所頭人(長官)に任じられました。

1335年、こんどは尊氏と戦うことになりました。鎌倉にもどっていた尊氏が、自分の力で新しい幕府をつくるために立ちあがったからです。義貞は、天皇の命で出陣しました。

義貞は、箱根での戦いには負けましたが、京都へ追ってきた尊氏を、遠い九州へ追いはらいました。ところが、つぎの年には、ふたたび京へ攻めのぼってきた尊氏の大軍に、生田ノ森(神戸市)の戦いでやぶれてしまいました。

義貞は、かならず、京へもどってくることを心に秘めて、越前国(福井県)へのがれました。しかし、その夢は果たせませんでした。尊氏に味方する斯波高経に敗れたのです。その後、征夷大将軍になった尊氏にくらべ、あまりにも非運な武将でした。


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