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(22)

岡崎正宗(生没年不明)

12世紀の終わりころ、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治が始まると、武士の文化がさかんになりました。とくに、武士にとっては、なくてはならない刀剣の発達はめざましく、各地に、歴史に名を残す刀工が現れました。「名刀正宗」の名で知られる岡崎正宗は、その鎌倉時代を代表する刀工です。

鎌倉時代中期の1264年ころ、相模国(神奈川県)鎌倉で生まれたといわれる正宗は、刀工の技術を、新藤五国光に学びました。そして、国光の弟子の藤三郎行光の養子になって、名刀を生みつづけたと伝えられています。

刀に、ねばり強さと美しい刃文をもたせる、鎌倉の刀工のすぐれた技術を身につけた正宗は、さらに工夫と研究をかさねて、新しい刀をつくりだしました。たけを長く幅を広くして、そりを少なくし、そのうえ刃をかたく、うすくした刀です。これは、1274年と1281年に元(中国)軍が日本へおそってきたときの教訓を生かして、考えだしたのだといわれています。海から船で攻めてくる敵に対しては、たけの長い刀が効果をあげ、布と綿のよろいを着た元軍の兵を切るには、うすくて切れ味のするどい刀が、威力があったからです。

国光、行光、そして正宗によって完成された、この大きな刀を相州物とよびました。正宗は、相州物によって、刀工のひとつの流派をうちたて、名刀工とうたわれるようになったのです。

ところが、やがて世の中が平和になると、たけの長い刀は使われなくなり、たけが切りつめられるようになりました。刀工の名前を入れたつかの部分が切りとられ、このため、正宗の名が入った刀は、のちに少なくなってしまいました。

正宗は、刀を作るとき、まず冷たい水をかぶって、からだを清め、よごれひとつない白い装束を身につけて、仕事場へ入りました。すぐれた刀をうつためには、きびしい修行でみがきあげた技術のほかに、けがれのない心がたいせつだったからです。

正宗は、正宗十哲とよばれる10人の名刀工を残したほか、多くの弟子を育てました。年老いてからも全国各地をめぐり、すぐれた刀工になりそうな人にであうと、自分のもっている技術のすべてを教えたといわれます。自分にはきびしいが、きっと心の広い人だったのでしょう。

正宗の刀は、豊臣秀吉が、家来にほうびとして与えるようになって、とくに有名になったともいわれます。いまも、いく振りかの刀は名刀として、国宝や国の重要文化財に指定され、その美術品としての美しさは、外国にまで知れわたっています。


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